Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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自然は芸術を模倣する
 芸術家はまず彼らが生活している身の回りを取り囲む自然をながめ、それを模倣することから、その活動をスタートする。例えば芸術家が絵を描く場合を考える。ひとつの花を描こうとすると、まずその花をよく観察しなければならない。花を支える茎の太さ、長さ、構造、また茎から葉がどのように生え、その大きさが全体に対してどのような割合であるのか。また花を構成する花びらが、どのように重なり合っているのか等々。それらの観察を通し1枚のカンバスに、その花を描き採る。それが絵を描くことである。
 芸術家は実際に存在する花と1枚のカンバスに描き採られた仮想の花との間に介在している。つまり、カンバス上の花は芸術家(人間)がいなければ存在できなかったわけである。またカンバス上の花は芸術家の観察を通して描かれた仮想の花である。そのようなものである以上、その芸術家の観察能力や鑑識眼、審美眼等によりカンバス上に現れた花はさまざまに変化する。100人の芸術家がいれば100通りの花がカンバスに現れるのである。その中のどれが実在の花を描き採ったのであろうか? 我々には判断のしようがない。
 これはなにも絵に限ったことではない。彫刻においても同じことである。どれが実在の美しい女性の身体を刻みだしたのか? 小説家はある出来事を言葉という手段を使って文章に現す。そのどれが出来事の実体を本当に伝えているのか? 全ては仮想なのである。 さらに、これはなにも芸術家や小説家に限ったことではなく、人間の表現活動全般に言えることなのである。物理学者は同様に自然を観察し絵筆とカンバスを使うかわりに数式を使い自然を表現するのであるし、音楽家は音符を使用するのである。手段は異なるものの全て自然の実体を描き採ろうとし、表現しようとする人間の作業努力の活動なのである。
 我々はそのようにカンバス上に現れた仮想の花を見て、逆に実在の花を見ようとする。その過程で、またも、人間の想像という仮想が作用する。否定の否定は肯定であろうし、逆もまた真なり。ひょっとするとこの過程で花の実在に到達するのかもしれない。
 時として我々はどこかの美術館で見た1枚の絵の世界と全く同一の自然の風景に出会ったり、小説の中の出来事に実際に出会ったりすることがある。それはまさに 「自然が芸術を模倣している」 かのように思える。であれば、物理学者や数学者が記述した数式を自然が模倣して我々の回りを運行していても不思議はない。
 「発見」には人間の意識介入としての意図は作用していないが、「発明」にはその人間の意識介入としての意図が作用していることは、第1391回「発見される宇宙と発明される宇宙」で述べた。この構図に上記した「自然は芸術を模倣する」の論旨を適用すれば以下のような帰結が導き出される。 曰く。発見は人間の意図で構築された 「発明を模倣したもの」 であると。

2020.05.26


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