Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

問いの終焉
 科学を構成する基礎的な大発見は出尽くし 「科学が終焉」 したと喧伝されて久しい。 さらなる大発見も幾つか残されてはいるものの、そのどれもが膨大な研究資金を必要とするものであって、投資に値する収益性が見込まれるものでない限り、その研究資金を拠出する者(企業・政府・団体等々)はいない。 現在行われている科学研究の大半はその収益性に見合った大発見の応用と実用化に関するものである。 このような傾向は科学に限ったことではなく、あらゆる分野でも同様に起きている。 考え得る限りの音楽や、考え得る限りの文学が、創作され尽くした現在、すべての創作物はそのオリジナルの模倣であり、そうでなければその変形である。
 科学的成功によってもたらされた物質的豊饒が臨界に達すれば、その成功を支えた知的活動もまた臨界に至ることは必然の帰結である。 知的活動が尽きなば、その活動を支えていた 「こころ踊る精神的高揚」 もまた尽きなんことは必定の成り行きである。 「最初はやりたいことが山ほどあっても、それが達成されるにしたがって減少し、すべてが達成されるをもって皆無となる」 これは精神的高揚感変遷のメカニズムである。 科学的成功によってもたらされる科学の終焉はまた知的探求の終焉であって、問うべき問いが尽き果てたとき、人間としての精神的高揚感もまた終焉を迎えることになる。
なぜいったい、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか ・・?
                                                Martin Heidegger
 これは実存主義哲学者マルチン・ハイデッガーの 「存在と時間」 で提供された問いである。 この問いは、哲学の一分野である存在論の根本的な問いであると同時に、現代科学の究極の問いでもある。 換言すれば 「この問いは 問うべき問い の最期に位置する 問い」 である。 存在論を突き詰めたあげくに至った究極の問いが 「もともとあったものは 無ではなかったのか?」 という大反転の帰結は何とも象徴的である。
 また弘法大師空海が62歳で高野山に入定(入滅)するに際して遺した 「太始と太終の闇」 と題する偈(詩文)もまた 「問うべき問いの最期に位置する 問い」 であろう。 生涯を代表する大作となった 「秘密曼荼羅十住心論」 をみずからが要約した 「秘蔵宝鑰」 の序文、最終行に配されている。
三界の狂人は 狂せることを知らず
四生の盲者は 盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終わりに冥し
※)「太始と太終の闇」についてはベストエッセイセレクション 「空海とビックバン宇宙論」 で論考しているのでご参照願うこととしてここでは割愛させていただきます。
 哲学者ハイデッガーにして、宗教者空海にして、生涯に渡って 「存在の何たるか」 を突き詰めた知的探求者である。 前者は 「無」 に行き着き、後者は 「冥」 に行き着いた。 無と言い、冥と言うも、それは微妙な表現の異なりであって、本質は同じであったであろう。 問うべき問いが尽き果てたときに両者が背負った絶望感とはいかばかりであったであろうか?

2020.04.16


copyright © Squarenet