Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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スペイン風邪に処する
 スペイン風邪は記録にある限り人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行(パンデミック)であった。感染者は約5億人以上、死者は5000万人から1億人に及んだといわれる。当時の世界人口は18〜20億人であると推定されていることから、全人類の3割近くが感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者ではほとんどが生き残った一方で、青年層では大量の死者が出た。日本では、当時の人口5500万人に対し39万人が死亡したといわれる。これらの数は戦争や災害などすべて含めた死因の中でも、最も多くの人間を短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。流行の経緯は、第1波の流行は1918年3月、アメリカのデトロイトやサウスカロライナ州付近などであったが、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第1次世界大戦)と共に大西洋を渡り、5月から6月にヨーロッパで流行した。第2波の流行は1918年秋、ほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり重篤な合併症を起こし死者が急増した。第3波の流行は1919年、春から秋にかけて、第2波と同じく世界中で流行した。それまでの流行で多くの医師や看護師が感染者となってしまったことにより、医療体制が崩壊していたこともあって、第3波の流行では感染被害がさらに拡大した。この経緯を教訓として、2009年、新型インフルエンザの世界的流行の際には、インフルエンザワクチンを医療従事者に優先接種することとなった。
 奇しくもそれからちょうど100年あまりの歳月が経過した今、世界は新型コロナウイルスの暗雲に覆い尽くされている。まさにスペイン風邪の再来を目のあたりにするような既視感を覚える。「故きを温ねて新しきを知る」の教訓のごとく、「天災は忘れた頃にやってくる」の寺田寅彦の伝説の警句のごとく、もって身を処して事にあたらなくてはならない。
 以下、蛇足ながら書き添える。
 スペイン風邪流行の裏には劇作家 島村抱月と、愛人であり劇団の看板女優であった松井須磨子との哀憐の物語が隠されている。 話はこうである。 大正7年(1918)10月の末、須磨子は時ならぬスペイン風邪に罹患してしまう。島村は感染の危険をかえりみることなく高熱に苦しむ須磨子を昼夜を分かたず看病していたのだが、風邪は島村に感染、11月4日、島村はあっけなく逝去してしまった。それから2か月が経過した大正8年(1919)1月5日、残された須磨子は舞台裏の道具部屋で自ら命を絶ってしまう。遺書にはこう書かれていた。「私はやはりあとを追います。あの世へ。あとの事よろしくお願い申上げます。それから只ひとつ、はか(墓)だけを同じ処に願いとうございます。 (中略) 幾重にも御願い申上げます。同じ処にうめて頂く事をくれぐれもお願い申上げます」 だが妻子ある島村の身とあっては願いは叶うはずもなかった。須磨子の遺骨は生家(長野市松代町)の裏山の墓所に埋められたという。 記憶の片隅にのこされたスペイン風邪が投影した時空の風景である。

2020.03.17


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