Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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現実としての現在とは(3)〜救済される現在
 現在は過去の結果なのか ・・? それとも、未来の結果なのか ・・? 前者は原因と結果で構築される 「因果律」 に基づく現在であり、後者は意識的観測で構築される 「超因果律的量子論」 に基づく現在である。 因果律的現在とは現在におけるさまざまな事件が 「過去に行われた」 さまざまな物事の結果として発生するという考えである。 超因果律的現在とは現在におけるさまざまな事件が 「未来に行う」 さまざまな意識的観測の結果として発生するという考えである。 それはまたシュレジンガーの 「波動理論」 から導かれる現在であり、波動関数を収縮させる 「観測問題」 として語られる現在である。 簡潔に言えば、現在とは、あらゆる可能性の中から我々の意識が抽出した 「たったひとつの可能性である」 とする考えである。 以上からすれば、あるいは、現在とは 「過去の結果としての現在」 と 「未来の結果としての現在」 という 「2つの異質な現在」 がハイブリット状に 「混合」 したものかもしれない。
 過去を構成し支配するものは 「記憶意識」 である。 従って、過去の記憶を変更すれば、過去の結果としての現在もまた、変更可能ではないかというと、そうはうまくいかない。 なぜなら、私が過去の記憶を変更しても、私以外の他の人々がその過去を記憶しているからに他ならない。 私が過去に 「為したこと」 は、すでに私以外の他の人々の記憶に刻まれてしまっていて、私が 「忘れたから」 といって、他の人々の記憶が消えてしまうわけではない。 つまり、過去の結果としての現在とは、私自身がどうあがいてみても変更不能な 「拘束された現在」 である。 簡潔に言えば、私が過去に買った株が下がったからといって、買ったという私の記憶意識を変更しても、結果としての損失が消滅するわけではないということである。
 未来を構成し支配するものは 「想像意識」 である。 私が未来に想像することは、未だ私以外の他の人々に何らの影響も与えてはいない。 私の想像意識はいかようにも変更可能であって、それは私自身のものである。 従って、私の想像意識以外に現在において発生する事件に影響を及ぼす者は存在しない。 未来の結果としての現在とは、私自身の自由意思でいかようにも変更可能な 「解放された現在」 である。 簡潔に言えば、私が未来に株を買うかどうかという、私自身の想像意識を変更することで、結果としての損益はいかようにも変更可能であるということである。
 過去の結果としての因果律的現在とは、言うなれば、この世の人々と 「共有する現在」 であり、未来の結果としての超因果律的現在とは、言うなれば、私ひとりが 「専有する現在」 である。 つまり、私が 「こうした」 ことは変更できないが、「こうする」 ことはいかようにも変更可能である。
 現在を変更可能にする 「専有する現在」 をもてることは人間にとって 「最高の幸せ」 であろう。 専有する現在を構築する 「想像意識」 には、限界なく、貧富の別なく、貴賤の別なく ・・ 絶対的公平が保証されている。 かかる保証は人間にとっての 「最大の資産」 であるとともに、また 「最大の救い」 でもある。 個人の想像意識を拘束できる者はこの世には存在しない。 それはこの世のいかなる権力者をもってしても不可能である。 かかる例証は、多くの人々が 「共有した」 第2次世界大戦下のアウシュビッツ収容所における悲惨な 「拘束された現在」 さえも、個別のひとりが 「専有した」 自由に飛翔する 「解放された現在」 によって 「救済された」 とする収容者の証言の述懐の内に観ることができる。

2018.12.27


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