Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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漂う時空(1)〜過去は未来で未来は過去
 時間の探求に関しては、「時は流れず」というテーマでさまざまな視点からアプローチを試みてきた。第438回「反骨の哲学者」では哲学的な視点から、第667回「相対性理論が意味するもの」では科学的な視点から、第953回「運動を時間で分解することはできない」では工学的な視点から ・・ 等々である。
 以下の記載はそれらのアプローチから導かれた第1028回「過去と未来の発生現場」、第1060回「夢幻のごとく」からの抜粋である。
過去と未来の発生現場
 「時は流れず」とは過去と現在と未来が時間で連続していないことである。過去と未来は意識世界の存在であって、運動をともなった実在(リアル)として存在する現在とは本質的に異なる。それは意識の根源である記憶が消失すれば過去も未来もたちどころに消失してしまうが、記憶が消失したとしても現在は実在として存在することを考えれば素直に了解されよう。そのような異質な世界の間を貫いて同質的な時間が連続して流れているとは相当の妥当性をもって考えることができない。
 しかしながら、意識世界の存在であっても、過去と未来の発生現場は、今の今である実在としての現在であることには違いはない。昨年は過去、来年は未来、今の今である今年は現在である。昨日は過去、明日は未来、今の今である今日は現在である。さきほどは過去、のちほどは未来、今の今であるただいまは現在である。これらの過去と未来の違いは発生の起点である今の今から意識がたどった記憶の鮮度にかかわっている。さきほど、のちほど、で指定される過去と未来は、できたての過去と未来である。昨日、明日、で指定される過去と未来は、幾分か鮮度が低下した過去と未来である。昨年、来年、で指定される過去と未来ともなれば、賞味期限すれすれの過去と未来である。また記憶の鮮度は人によって異なるため、すぐに鮮度が劣化してしまう記憶能力の人にとっては1日が、1月に、1年に値する。
 映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガートは「昨日? そんな昔の事は忘れた 明日? そんな先の事は分らない」という名台詞をのこしている。もっともこれは本当に忘れてしまったわけではなく、酒場の女に口説かれたボガートがさらりと粋にかわす場面で使われたものである。だがもし本当に忘れてしまったとしたら、過去や未来はあっというまに遠ざかっていく。俗に世で言う「時の流れ」とは、この記憶の鮮度に付随した流れである。この流れが過去と現在と未来が連続するとする認識の根拠を生成しているのである。
 Pairpole宇宙モデルでは連続する過去と現在と未来で構成された宇宙を「連続宇宙」と呼び、今の今である断裂した現在で構成された宇宙を「刹那宇宙」と呼んで、2つに区分けしている。そこで使われる時間は、それぞれの宇宙を語るパラメータ(変数)の役割を成すとともに、実質的には光速度で移動する意識波としてとらえている。 (2017.03.15)
夢幻のごとく
 時間は「過去から現在を経て未来に向かって流れている」という感覚が常識人の感覚である。「過去→現在→未来」と並べられた「線形時間」の構造である。だが、今の今、と呼ばれる現在は記憶でもなければ想像でもない運動をともなった実体としての現実である。線形時間の構造を素直に描写すれば以下のようになる。
 時間は記憶の世界から現実の世界を経て想像の世界に向かって流れている。
 さらに詳しく描写すれば次のようになる。
 時間は記憶という無形の意識世界から現実という有形の物質世界を経て想像という無形の意識世界に向かって流れている。
 さらに描写の方法を単純化すれば次のようになる。
 時間は無形の世界から有形の世界を経て再び無形の世界に向かって流れている。
 さらに表現を現代風に変換すれば次のようになる。
 時間はバーチャルの世界からリアルの世界を経て再びバーチャルの世界に向かって流れている。
 以上の描写から線形時間を総括すれば、時間は連続する均質な世界を流れているのではなく、不連続で異質な世界を貫いて流れていることになる。放たれた矢が「意識世界から物質世界を通過して再び意識世界に向かって飛んでいく」などという構造の妥当性をいかに納得すればいいのだろう?
 だが誰もがかくなる線形時間の非整合性をそのままにして生活していても何ら問題は発生しない。であれば線形時間は正しいのか? それとも大いなる錯覚に裏打ちされた間違いなのか? 仮に線形時間が大いなる間違いであった場合、自然界の生物の中において人間のみが、かなり奇妙で不可思議な世界に生きていることになる。この状況をいっきに還元して表現すれば「人間は夢幻のごとくの世界」に生きていることになる。
 以下蛇足ながら付言すれば、アリストテレスを悩ませた古代ギリシアの自然哲学者、ゼノンが唱えた「アキレスと亀」、「飛んでいる矢は止まっている」等々のパラドックスはかくなる線形時間に隠された根源的な疑義に端を発している。「アキレスと亀」とは ・・ 走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである ・・ とする議論。 「飛んでいる矢は止まっている」とは ・・ もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かないとする議論。  これでは何を言っているのかわからないような説明であるが、本質は「アキレスと亀」と同じであって、放たれた矢がある通過点を通過するとき、その通過点の前にある中間点を通過しなければならず、その中間点を通過する前にはその前にある中間点を通過しなければならず、その中間点を通過する前にはそのまた前にある中間点を通過しなければならず ・・ というように無限の中間点を通過しなければならない。 結局、放たれた矢は先に進むことができず「止まっている」ことになる。 (2017.06.02)
 我々が生きている宇宙は時間と空間で構成された「時空間」と呼ばれる。その構成要素の時間して実体はかくのごとしである。これでは過去は未来であっても、また未来は過去であっても、何ら不都合なことはない。時空は虚空を渡る舟のように漂っているに過ぎないのである。

2017.10.02


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