Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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未来は過去であるとともに過去はまた未来である
 2005年1月20日、私は「事件の構造(第509回)」と題して以下のように書いている。遡る12年余り前のことである。
 未来とは「事件の計画」であり、現在とは「事件の実行」であり、過去とは「事件の結果」である。
 事の経過は時系列で配列された未来・現在・過去という時間の経過でとらえることは一般的である。だが肝心なその時間を「目撃した人」は未だいない。 時間とはあるいは事件経過の「関数」として人間の意識が日常生活の機能性として創作した「抽象的便宜性」なのではあるまいか ・・?
 仮に生活の便宜性として考案された関数としての時間概念を採用せずに、未来を事件の計画、現在を事件の実行、過去を事件の結果という意識に基づいた因果律のみで考えれば、この世とはさまざまな「事件の生々流転」と還元される。 つまり、「事件が用意されるをもって未来」、「事件が発生するをもって現在」、「事件が消滅するをもって過去」という構造である。
 時間に関しては今までにさまざまな視点からアプローチを試みてきたが、上記した思索ではその時間の概念を軽々と捨て去っている。 それは若さゆえの思考跳躍であったのか? その時はこの世から数学的な時間概念を消去すれば「このようなことになる」と考えたのである。
 また続く「事件の動機(第510回)」では未来を構築する「事件の計画」について以下のように書いている。
 事件が用意されるをもって未来というときの「事件を用意する」とは、「事件を想像する」ことに換言される。「思考は実現する」とは成功法則を研究したナポレオン・ヒルの言葉である。彼は物事が思考という意識作用によって現実に発生することを明らかにした。正確には思考は実現するではなく「想像は実現する」であろうし、さらに詳しく言えば「強く明確な想像は実現する」となる。 従って、さまざまな「物質的事件の生々流転」であるこの世は、またさまざまな「意識的想像の生々流転」でもある。
 つまり、現実空間に発生する「事件の動機」とは「事件を想像する」ことであり、簡潔に言えば、この世の何事も「まず想像するところから始まる」ということである。
 そして2017年7月28日、私は世界から未来が失われ不確定性に満ちた明日に向かっていることを危惧して「失われゆく未来(第1077回)」を書いた。 その末尾を「外的物質世界は内的意識世界から投影された現象世界であって、外的現象世界が混沌を極めたとしても、内的意識世界が明快であれば倒れることはない」と結んだ。
 かくなる帰結は前記した2編で考えられた内容と時空を超えて今に繋がっているように観える。 それは単なる共時性の賜なのか?  それとも時間を消去したあとに現れる超因果律的な「未来は過去であるとともに過去はまた未来である」という意識のめぐり逢いが紡ぐ実世界の風景なのであろうか?

2017.08.17


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