Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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森田童子の風景〜貫いた優しき世界
 かって森田童子という風変わりな名前の女性シンガー・ソングライターがいた。いたと言うのは彼女は引退を宣言することなく1983年、音楽活動を休止、溶けていくように時代の表舞台からフェイドアウトしてしまったからである。その曲調は深い寂寥感と孤独感を湛え、その歌声はいまにも消え入りそうなほどにか細く、だがいちどでも耳にするとこころの片隅に刻まれてしまうような力を秘めていた。
 生まれは1952年というから、生きていれば65歳ということになろう。本名を明かさず、黒いサングラスで顔を覆って、素顔を見せることがなかった彼女は、自らを極度に語らなかったため、その人となりをうかがい知る資料に乏しいが、まとまって書かれたものが、朝日新聞「うたの旅人」2010年5月22日付けの掲載記事として残っている。 以下はその掲載記事から抜粋して編集したものである。(尚、編集の都合上、記事からの引用文においては敬称を略させていただきました)
危ういバランスの「地下の歌姫」〜ドラマの主題歌でヒットした「ぼくたちの失敗」
 「海底劇場」は、その奇妙な名前が実在のものとは思えなくなりそうなほど日当たりのよい場所だった。それが音楽事務所の商号とは、およそ想像もつかない「海底劇場」は、東京の渋谷駅から歩いて10分ほどのマンションの一室にあった。
 音楽プロデューサー・ミュージシャンの高橋研が、「海底劇場」に入りびたるようになったのは1976年、盛岡から上京し、早大法学部の学生になって間もないころだった。同郷の女友だちに誘われて遊びにいくと、陽光に満ちあふれた部屋の片隅に、眼鏡をかけた年上の女性が一人きりで、物静かに分厚い本を読みふけっていた。「図書館にこんな司書の人がいたらいいのに」と感嘆したほど、彼女の容姿はりりしかった。フランスの女優のイザベル・アジャーニにどことなく似ていたという。彼女が、まだデビューして2年目の森田童子だったのである。
 「海底劇場」に所属するミュージシャンは森田一人だけだった。足しげく出入りするうち、高橋は、気心の知れるようになった事務所の社長から、森田の前座で歌ってみないかと持ちかけられた。彼女はのどが弱いうえに、持ち歌も短い曲ばかりなので、ステージを30分持たせられないというのだった。かって東京の足立区千住にあった伝説のライブハウス「甚六屋」で最初に共演したとき、30人も入れば身動きできなくなる客席にその倍を超える人数のファンが詰めかけた。ギター1本で弾き語りする森田の吐息を感じられるほど間近に最前列の客の顔があったという。か細い少女の、はかないため息のような歌声を聴き逃すまいとして、客は一人残らず前かがみになり、うつむきながら耳を傾けている。すすり泣くファンもいた。無痛のまま刺さって抜けなくなる、やわらかい針のように、むきだしの心の暗部をやすやすと貫いてしまう歌だった。「あっけなく壊れてしまいそうなバランスでできあがっている童子の音楽は、聴いているうちに手に汗握ってしまう。客も自分の内面世界に入りこみ、歌詞の言葉をひとつひとつ自分の人生に重ね合わせながら聴いていた」と高橋は語る。
 「森田童子」は偽名である。しかし、本名はいまだに明らかにされていない。人前では黒いサングラスを絶対にはずさなかったので、素顔をさらしたこともなかった。
 当時、新しいアルバムが発表されるたびに彼女にインタビューしていた音楽ジャーナリストの富沢一誠によると、デビューするまでの遍歴が、固有名詞を交えて事細かに語られることはなかった。
 「1952年、東京に生まれる。学園闘争の渦中にあった高校時代、ラジオの深夜放送でサイモン&ガーファンクルを聴いていた。1970年に高校を中退、暇にまかせてふらふらと旅に出る。1972年夏、友人の死を知らせるはがきが届いたのをきっかけに、めまぐるしく疾風のように通り過ぎていった青春を振り返って歌い始めた」これが、公表された実人生のほぼすべてだ。
 ただ、富沢の記憶から離れないのは、「ありのままの青春」を歌ってはいないのだと、次のように打ち明けられたことだった。「私の歌は『思いこみ』なんだよね。友だちとはこんなふうに別れたなあというのではなく、こんなふうに別れられたらなあという願望。その願望を歌って、それを青春として『思いこむ』んだよね ・・・ 」
 森田が発表したアルバムのプロデュースを手がけた松村慶子(現・ライブハウス「RUIDO」会長)は、デビューする約1年前、知人の紹介で自作曲のデモテープを持参してきた彼女は、人前で歌うつもりは、まるきりなかったという。「本人は髪形をポニーテールにして、どこにでもいる少女のような印象でした。でも作品には、聴いているとイメージの扉を開かれて慰撫されるような唯一無二のフィーリングがあったので、絶対に何かある、これはいける!と直感しました。ただし、その独特の世界は本人が歌わないと響いてこないので、あんたが歌ったほうがいいと説得したんです」
 サングラスは心ならずも、みずから表現者となるための武装だった。「私に対しても、ほとんど私語を発しない。浄化された世界を表現した作品に自分の生活感をにじませないために、余計なことは聞いてもらいたくないと思っていたようです」
 ライブハウスの旗手とうたわれるようになったデビュー3年目の1977年6月、豊島公会堂(東京都豊島区)での東京初のコンサート「童子像」は、ついに定員約800人の会場から約300人もの観客があふれ出してしまった。地下の歌姫として大学生を中心にカリスマ的な人気を博したが、高橋は「童子には、意地でも地上には這いあがるまいという強固な意志があった」という。引退を宣言することなく、音楽活動を休止したのは1983年末だった。
 デビュー当時の所属レコード会社の宣伝プロデューサーだった市川義夫は、「1980年代になると、もう自分の居場所はないと思ったのか、新曲を作らなくなった。その意味では、溶けていくように消えていなくなったというのでしょう」と心残りをあらわにするのだった。
 「ぼくたちの失敗」が、テレビドラマ「高校教師」の主題歌になってヒットしても、再び歌おうとはしなかった。彼女の消息を知る人を介して、その真意を問う対話がしたいと打診してもらった。だが、とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で「手紙すら書けないほど憔悴している」という返答があった。危ういバランスでつなぎとめられている世界が、まだそこにあった。
人の弱さをいとおしむ〜森田童子「ぼくたちの失敗」
 昼下がりの無人駅のホームにそそくさと降り立ったのはたった一人、私だけだった。新潟県の長岡駅から乗ったJR信越線の鈍行列車が、終着駅の直江津めざして走り去ると、潮の香を含んだ微風がホームを吹きぬけた。
 眼前に現れたのは、陽光を照り返しながらも寒々としている海原だった。日本海沿岸の柏崎にある、この青海川駅は、「日本でいちばん海に近い駅」と名乗りをあげている、いくつかの駅のひとつだ。長岡行きの鈍行列車が日に12本しか停車しない下りホームは波に洗われそうなほど海辺に迫り、洋上の駅にたたずんでいるかのようなシュールな錯覚に陥りそうになる。窮屈な待合室とトイレしかない駅舎には、「青海川日記」と表書きされた、誰でも書き込めるノートが置いてある。それを読むと、この駅はいまだに、あの背徳と禁断の愛の物語を追憶する手がかりとされていることが分かるのだ。
 「あれから17年。 ついに来ました。 荒れる日本海。 2人の運命は ・・・ ありがとう『高校教師』」
 「今日はついに、私も高校教師になって、ここに来ました!」
 「高校教師」は1993年にTBSテレビ系で放映されたドラマだ。東京の女子高に赴任した生物教師、羽村隆夫(真田広之)と2年生の二宮繭(桜井幸子)は、孤独と絶望を抱えて引かれあい、最終回、ついに救いのない逃避行へ旅立つ。終幕の間際、2人は晩冬の青海川駅から列車に乗り込んだ。車内で肩を寄せ、もたれあうように座っている2人は、たがいの小指を赤い糸で結びつけていて、まどろんでいるだけなのか、永遠の安息へ近づこうとして情死してしまったのかは判然としない。この謎めいたラストシーンにも重ねられて流れてくる主題歌が、「ぼくたちの失敗」だった。この歌は、ドラマが放映される17年も前に、女性シンガー・ソングライターの森田童子のレコードに吹き込まれていた。しかし、まさしく、やさしく狂っていく男と女の鎮魂歌として聞き取れたので、新曲と思い違いした人も少なくなかった。ヒットメーカーの脚本家の野島伸司と組んで、「高校教師」を手がけたプロデューサーの伊藤一尋は、「あの歌も、ドラマの心強い『共演者』でした」と思い起こす。
 ドラマの主題歌は当時、大物ミュージシャンに新曲をかいてもらうのが主流のやり方だった。ところが、「高校教師」は、近親相姦やレイプを題材として、禁忌さえ犯す、人の根源的な弱さへ分け入ろうとする作品だった。そのためその手法に違和感があったという。
 ことの起こりは、喫茶店で野島と思案に暮れるうち、どちらからともなく、「森田童子って知ってる?」と言い出したことだ。学生時代に聞き覚えのある森田の歌の数々を聞き返してみると、どれも主題歌になりそうなほど、耳にしっくりとなじんだ。「人の弱さをいとおしむように歌う森田童子の音楽の世界観が、ドラマのそれと、まさに共鳴し合っていました。野島も、聞きながらドラマの構想を練っていると、イメージがあふれ出てきそうだと意気ごんでいた」
 ドラマとともに、「ぼくたちの失敗」もヒットした。だが、音楽活動から身を退いていた森田は、この遠大な時間差のある称賛から顔を背けようとするように、かたくなに沈黙したままだった。
モノクロの肖像写真ジャケット
 自死によって絶筆となった太宰治の小説と同名のアルバム「good-bye(グッド・バイ)」は森田童子の最初のレコード(写真)で、1975年初冬に世に出た。遅れてきた叙情フォークというほかない曲調に、発売元のポリドールは売れ行きを危ぶんだ。そのため、歌い手のモノクロの肖像写真をジャケットにあしらったこのLPは初回、2千枚しかプレスされなかったという。「ぼくたちの失敗」は、その1年後に発売された2枚目のアルバム「マザー・スカイ」の1曲目に収録されている。これも当時、ヒットとは無縁で、知る人ぞ知るアングラの名曲にすぎなかった。
 1993年にTBS系のテレビドラマ「高校教師」の主題歌となり、17年ぶりにCDで再発売されると約95万枚を売り上げ、オリコンのヒットチャートで最高5位を記録した。
 私が森田童子を最初に知ったのはテレビドラマ「高校教師」の主題歌「ぼくたちの失敗」の歌手としてであった。このテレビドラマを娘が観ていて、知らず私も見続けることとなり、森田童子の人となりをその娘から聞いたことに端を発する。今までにはなかった曲想はその頃の「成熟したがゆえの変質」に向かう日本社会の様相を象徴しているかのようであった。発売から17年を経てドラマとともに「ぼくたちの失敗」もヒットして森田童子の名も広く知られるようになった。だが彼女は「この遠大な時間差のある称賛から顔を背けようとするように」かたくなに沈黙したままだったのである。
 それは、「意地でも地上には這いあがるまい」とする強い意志のあらわれであったのか?
 それとも、地下の歌姫として生涯を生きようとする矜恃であったのか?
 あるいは、自ら創りあげた「優しき世界」に対する義理立てであったのか?
 ともあれ「高校教師」のヒットからすでに24年の歳月が流れた。思いをきめたあの日から数えれば、40年以上の時を費やした孤高の旅である。彼女のか細き体のいったいどこに、そのような強靱な精神が隠されていたのであろうか? 今となれば遥かな時空の旅路を想うのみである。

2017.06.12


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