Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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遥かなり絵島(3)〜ドラマ「忠臣蔵の恋」に想う
 NHK土曜時代劇「忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣」というドラマが人気を博している。視聴していた私は、話は赤穂浪士の討ち入り事件で四十七士の1人であった磯貝十郎左衛門に思いをよせた主人公の「きよ(赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室、阿久里に仕えていた侍女)」が四十八人目の忠臣として仇討ちに助力する物語であると思っていた。 だが物語は討ち入りが終わったあとも続き、そのきよが6代将軍家宣の側室であるお喜世の方(後の月光院)となり、ついには7代将軍となる家継の生母にまで出世、それとともに月光院を支え続けた大奥女中の絵島(ドラマの中では江島)まで登場することになろうとは青天の霹靂のごとくに予想だにしないことであった。 のちに江戸の巷間を騒然とさせた前代未聞の疑獄事件「絵島生島事件」の主役となる絵島その人の消息は、第843回「遥かなり絵島(1)〜泣きぬれて暮れゆきて」、第876回「遥かなり絵島(2)〜山上の楽土を夢見て」で描いている。
 その描写の中からドラマに関係しそうなくだりを抜き出すと以下のようである。
絵島の生い立ち
 絵島は甲州藩士の娘として生まれたが、幼くして父が死に、母は連れ子をして白井平右衛門のところに嫁いだ。(別に、天和元年1681年、絵島は大和郡山に生まれたという説もある)元禄16年(1703年)23歳の時に縁あって紀州鶴姫に仕えたが、24歳の時に鶴姫が夭逝したため、白井の友人の奥医師、奥山交竹院(伊豆の利島へ遠島)の世話で江戸桜田御殿に住んでいた甲州藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)の側室、お喜世の方(後の月光院)に仕えることになった。家宣が綱吉の世嗣と決まって江戸城に入った時、絵島は月光院に随行して本丸に入りお使番になった。月光院が家継を生んだ年、家宣が6代将軍になると、絵島は400石を賜って29歳で年寄となった。正徳2年(1712年)家宣死去、家継が7代将軍となると絵島は600石を加増されて大年寄となり、大奥で大きな力を持つようになった。時に32歳であった。大年寄という役は1000人からいる女中を取り締まる年寄頭で大奥に数人いる。呉服商後藤縫殿介、薪炭商都賀屋善六等々の利権亡者たちが争って絵島の歓心を得ようと、船遊び、芝居見物に三回ほど誘ってもてなした。女中数十人を引き連れての遊興であった。大奥の女中の不評をかって失脚した老中もいたくらいで当時の大奥の力は強大であった。
事件の背景
 絵島生島事件がいかなるものであり、なにゆえに大事件へと発展したのか。背景は以下のようであった。天英院は前将軍、家宣の正室である。しかし彼女の生んだ男児は早世し、将軍の生母となることはできなかった。月光院は前将軍、家宣の側室であったが、彼女の生んだ男児が家宣の後を継いで7代将軍家継(就任当時はわずか4歳)となり、将軍の生母となり、大奥に権勢を張るようになった。この正室対生母の対立の結果、生母月光院の家老とも言える絵島が、正室天英院派に狙われたとみることができる。ただ、天英院という人は、思慮深く温厚な人物だったようで、天英院が直接事を起こしたとみることは疑問である。綱豊が6代将軍家宣となり、お喜世の方がその子を生んだとき、絵島は年寄りに上げられている。家宣が死に、4歳の家継将軍が生まれた。月光院となったお喜世は将軍の生母としての威勢を張ることによって、家宣の正室、近衛家からきた天英院、他の2人の側室から嫉妬反感の攻撃を受ける。絵島を厳しく取り調べた評定所の役人たちは、すべて天英院派に属していた。年若い月光院は、家継の補佐役である側用人、間部詮房を頼りにし、詮房は妻も側室も持たず、江戸城内に住んで政務に励んだという。家宣が学問の師として迎えた新井白石と政治顧問として迎えた間部詮房を追い込むために月光院派の絵島が狙われたことは間違いない。事実、この事件後、次期将軍選びの流れは旧勢力派が握るようになり、7代将軍家継がわずか8歳でこの世を去ると、8代将軍には紀州の徳川吉宗がなり、同時に、間部詮房、新参の儒学者、新井白石らは失脚していった。  正徳4年2月22日、絵島は、預かり先の白井平右衛門宅へやってきた目付役人に、厳しく取り調べられた。世上には、絵島と生島という役者とのうわさ以上に、月光院と間部詮房との間に「私通」があったのではないかということが、取り調べの目的であった。この絵島取り調べの前に、生島新五郎は目付けらによって徹底的に取り調べられ、「石抱き」という拷問にかけられた。石抱きとは、両手を後ろ手に荒縄で縛りあげ、正座させた膝の上に四角の石を乗せ、白状するまでだんだん石を重ねていき、その石を前後左右に揺り動かす。このため皮膚が破れ、その苦痛から逃れるために目付らの言い分をすべて認めさせられ、生島新五郎は、「絵島と情交があった」と白状した。この新五郎の自白を盾に、絵島は「うつつ責め」という厳しい拷問を受けた。この「うつつ責め」とは、三日三晩一睡もさせずに責め立て、意識朦朧の中で無理矢理に供述させる拷問だが、このような責め苦にあっても、絵島は新五郎との情交はなかったと最後まで頑強に否定した。絵島は老中らの拷問も交えた厳しい追及にも、「月光院様と詮房殿には不純な関係は一切ありません」と明確に否定している。絵島は裁きの場にあって生島とのあいだに何らやましいことは断じてないと言い開き、大奥のことについては、口外一切厳禁の法度だからと固く口をつぐみ、三日三晩不寝の糾問と鞭打ちに何も語らず、月光院と間部詮房をかばって一言も語ることがなかったという。絵島の罪状は、事件の担当者、老中秋元但馬守喬知が若年寄、大目付とともに評定し、おのが情欲に負けて大奥の重い職責にありながら風紀を乱したとされたが、その冷酷無残さは前代未聞であった。正徳4年3月のことであった。
(赤字の場所や人物はドラマに登場)
 月光院の父、勝田玄哲が現在も残る台東区元浅草の唯念寺で住職を務めていたことは事実であって、ドラマでもきよの父をこの勝田玄哲として描いている。「忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣」が史実であったかどうかは定かではない。おそらくはドラマの構成上において想像をふくらませたものであろう。
 だがそうでもないとする根拠について、ドラマの原作となっている「四十八人目の忠臣」を書いた諸田玲子氏はその後書きで以下のように述べている。
 「月光院と赤穂浅野家とのつながりについては疑問視する説もあるが 月光院が浅野内匠頭の後室に進物を贈りつづけていた事実や ゆかりの寺に伝わる逸話 藩の分限帳の名などつき合わせれば 荒唐無稽な話とも思えない これを前提に考えれば きよが桜田御殿へあがったいきさつや 赤穂浅野家の再興が成ったわけも腑に落ちてくる 待望の男児を産んだ女が褒美に嘆願を許されるのは歴史上よくある話で 月光院が旧主のためにひと役買ったという設定も あながち穿ちすぎではないと思う」
 また月光院の義理の姉が浅野家に奉公していたという話や大石内蔵助と徳川家宣の正室である近衛熙子(天英院)が縁戚関係にあったという話もある。
 これらを勘案すれば、あるいは月光院と赤穂浪士との間には何らかの関係はあったのかもしれない。であれば、家宣の寵愛を得た月光院が男児を産んだ褒美として赤穂浅野家の再興と島流しとなっていた遺児たちの恩赦を願うことは充分にありうることである。
 「忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣」の真偽はともかく、私が注目したのは「遥かなり絵島(1)(2)」で描いた信州高遠に流罪になった絵島が被った疑獄事件(絵島生島事件)を生んだ当時の時代背景と江戸城内で織りなされた愛憎渦巻く人間模様の胎動と葛藤の風景である。
 月光院と絵島が生きた世は「5代将軍徳川綱吉の世」から「8代将軍徳川吉宗の世」へと移行する狭間の時代である。5代将軍綱吉は江戸の庶民をして「お犬様」と呼ばせしめた「生類憐れみの令」の制定や赤穂事件の原因となった江戸城内「松の廊下」で起きた浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件における「片手落ち」の裁定等々で世を混乱させた評判悪しき将軍であり、8代将軍吉宗は傾きかかった徳川家を質素倹約をもって立て直した幕府中興の祖と呼ばれる名君である。
 つまるところ「赤穂事件」や「絵島生島事件」の物語はかかる「混乱から安定へと移行する狭間の時代」における世相、気分、息づかいがいかなるものであったのかを暗黙裏に後世に伝えているのではあるまいか。それはまた同時代に生きた人々の意識世界に投影された「直観的場面」が現実世界に構築した「歴史的場面」でもある。その歴史的場面の風景を「忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣」は映像をもって今に生きる私たちに見せてくれているのである。
「遥かなり絵島(1)〜泣きぬれて暮れゆきて」(第843回)へ
「遥かなり絵島(2)〜山上の楽土を夢見て」(第876回)へ

2017.02.06


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