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知的冒険エッセイ / 時空の旅

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知的冒険エッセイに寄せて
いつかどこかで
 「知的冒険エッセイ」は著書、「時空の旅」・「Squarefour」・ 「Pairpole」の続編として2002年8月6日から連載を開始しました。以下の記載は「Pairpole / 平成11年2月28日 初版第1刷発行」のプロローグとエピローグからの抜粋です。今となれば、はなはだ荒削りな論評との感はいなめませんが、その分、気概だけは充実しているように思います。 初心忘るべからず。 それは本稿(知的冒険エッセイ)の原点であり出発点なのです。すべてはそこから始まったのです。
プロローグ
 宇宙自然界に象出するさまざまな事象。その事象の裏側に存在する宇宙の真象。象出した事象は真象が投影した影である。その影を投影した真象とはいったい何か。
 これらを科学者は探求し、哲学者は思考し、文学者は情操し、芸術家は描写し、見えたものを表そうとする。その表現方法は数式であり、言葉であり、図形であり、音響である。それらは全てこの宇宙自然界に象出した事象、つまり影を投影した真象が何たるものかを表現しようとしたものである。しかし、それらは全てある方向からの視点で眺められた真象の部分投影像であり、全体像を表現したものではない。平易に言えば各専門分野で語られ論議されるセクショナリズム部分投影像である。
 「群盲が象をなでる」のことわざではないが、足を撫でた科学者は「象とは丸太のような生き物」であると見、胴を撫でた哲学者は「象とは岩のような生き物」であると見、鼻を撫でた文学者は「象とは蛇のような生き物」であると見、耳を撫でた芸術家は「象とはヒラメのような生き物」であると見る。この丸太であり、岩であり、蛇であり、ヒラメであるものが象である。このように象という実体を理解しようとすれば、各々の違った手法で描かれた表現を一体的に合成する必要がある。つまり、科学と哲学と文学と芸術と ・・ その他、あらゆる学問の融合と合成である。言い換えれば数式と言葉と図形と音響と ・・ その他、あらゆる表現手法の融合と合成である。
 現代教育にはその融合と合成を教える科目は見あたらない。生徒は算数は算数、国語は国語、理科は理科、音楽は音楽 ・・ というように個別的専門科目として教育される。算数と国語と理科と音楽を融合し合成しようという実体を把握するに最も重要な視点が欠け落ちている。今生徒にとってそれらの専門科目は受験項目としての科目でしかない。
 これらを融合し合成する手法とはいったい何か。違った表現方法で描かれた部分投影図を統合する手法とはいったい何か。それは想像であり、推理であり、仮説であり、思考実験であり ・・ 等々である。またそこから発するインスピレーションであり、直感であり、暗示であり、啓示であり ・・ 等々である。これらは認識を制御する左脳ではなく、感情を制御する右脳から発生する。
 私はこれらを総合した言葉として「直観」という言葉をこの稿で使用した。「観」とは見えないものを観るという語彙である。観音菩薩の観である。音は普通耳で聞くものであるが、観音菩薩は音を観るのである。救いがたき衆生を救うためには、声なき声を聴き、姿なき姿を観なければならないのである。この観音菩薩のスタンスこそ、この融合と合成を可能にする。因果律と論理認識の虜になってしまっている現代人は、この観音菩薩の心を見失ってしまっている。それは一国の首相であり、一社の社長であり、一家の主であり、一子の親であり、一人の人間であり、あらゆる人類に及びつつある。
 この稿はこの融合と合成へのチャレンジであり、すべての象出事象を分け隔てなく統合し帰納しようとしたものである。
エピローグ
 20世紀を終えようとする現在、人類は有史以来の転換点を迎えている。この転換点とは人類の繁栄を築いた因果律の飽和点である。人類のこれからの目標は過去数千年の長きにわたり鉄壁に築かれたこの因果律の分厚い壁の突破である。
 この突破の手がかりは、物理学で言えば量子論から生まれた各理論であり、熱力学で言えばイリヤ・プリゴジンの提唱した非平衡熱力学の散逸構造理論(自己組織化)であり、心理学で言えばユングの提唱した目的論(共時性)であり、その他複雑系を扱うカオス理論等々の展開と可能性であろう。
 これらの研究の根底にはどれも超因果律の直観が横たわっている。この原因と結果で構成されない論理は従来の原因と結果で構成された因果律に慣れ親しみ価値を構築してきた人類には大きな「とまどい」であろう。現在進行する情報化社会へのシステム変換はその序章である。
 人類がたどってきた狩猟採集社会、農耕社会、工業社会の各システムの根幹はすべて形と重さのある物体の性質、機能、価値を追求する「唯物的システム」であった。しかし、情報化社会の最も異なる点は形も重さもない情報を追求するところにある。ここで言う情報とは認識であり、知識であり、精神であり、心であり、唯識という言葉にまとめられるものすべてを含む代名詞である。つまり、今後構築される社会の中心システムは「唯識的システム」である。人類はこれまでの唯物的システムの構築において大成功を収めた。今まで人類が構築したさまざまな学問や構築された理論はその成功を支えた強力な「思考ツール」である。しかし、そのどれもがこの唯物的システムの中心対象である物体の性質、機能、価値を説明する基本法則であった。次なる社会の唯識的システムの中心対象は識体の性質、機能、価値を説明する基本法則である。姿形も重さもない認識や知識や精神や心を説明する基本法則である。
 唯物と唯識は紙の表裏のごとく一体的なものである。唯物的基本法則が物体の外観を述べたものであるのに対し、唯識的基本法則は物体の内観を述べるものである。
 縄文と弥生の項で明らかにしたように、かって人類はこの物体の内観をとらえていた。しかし、物体の外観をとらえる因果律法則を獲得するや人類はこの物体の外観的な価値追求に奔走し内観的価値を置き去りにしてしまったのである。人類は20世紀を終えるこの時空に至ってようようそのことに気づきだしたのである。現在世界を取り巻く経済システムの混乱、社会システムの混乱、価値基準の混乱がそのことをよく物語っている。因果律とエネルギ保存則は等価法則であることは本文で述べた。つまり、原因というエネルギは結果というエネルギに転化する。これで考えれば、従来の社会システムの基本エネルギであった物的外観エネルギという原因エネルギは物的内観エネルギという結果エネルギに転化するということである。この大きなエネルギ転化を理解しなければ今後展開するであろう情報化社会のシステムに対応することはできない。その転化とは石油という物的外観エネルギから熱という物的内観エネルギに転化するようなものである。エネルギ保存則はこの転化の前後でエネルギ量は一定に保たれるという法則である。ゆえに社会システムの転換により発生するこの大きな基本エネルギの転換においてもエネルギ量は一定に保たれている。エネルギが増減したり消滅するわけではない。石油から熱に変わるようにただ姿形が変わるだけである。これは最も忘れてはならない重要なポイントである。これを理解し、人類自身がこのエネルギ転化に応じた変身ができれば転化エネルギを有効に運用することは可能である。いま世相で叫ばれる「発想の転換」とは、まさにこの「人類の変身」の意味である。
 この稿で私はこの転換を訴え画したつもりである。それができたか否かは皆さんの評価と後世の実展開を待つしか他に手だてがない。しかし、私自身のもてる知恵と意欲のすべてを駆使し思考したつもりである。その結果はまた私自身の最も期待するものでもある。それを支えたものは工学メカニズムの開発で養った「開拓者魂」である。
 世には大別して「開拓者」と「耕作者」という2種類の人間分類がある。開拓者とは自らの意志で山に入り木を切り倒し開墾し田畑を創る者であり、耕作者とは開墾された田畑で種を蒔き水をやり作物を作る者である。この「創る者」と「作る者」の違いは思考と行動の姿勢において180度異なる。「創るとは無から有を生む者」であり、「作るとは有から有を生む者」である。日本の産業発展の歴史を考えた時、この創る者と作る者の違いが歴然と現れてくる。私が社会に出た頃の期待される人間像とは、世界のホンダを創始した本田宗一郎氏であり、世界のソニーを創始した井深大氏などであった。本田さんはナッパ服を着て油まみれになって世界一のエンジンを創ろうとしていたし、井深さんはプレハブ工場で世界一小さいトランジスタラジオを創ろうとしていた。その頃の日本の社会環境は現在とは比べようもなく不遇であり貧しかった。勤めるのに職はなく給料の遅配はまれではなく生活は苦しかった。だが、その頃の日本人はそんな生活の不安感などは眼中になく危険も省みず夢と情熱だけで未知なる世界に挑戦していた。まさにサツマイモをかじりながら昼夜を忘れ、創ることに狂奔していたのである。その頃の日本人はすべてが開拓者であった。しかし、その後、日本人は耕作者の道を歩みだす。開拓者が開墾した田畑で種を蒔き水をやり作物を育て収穫を得る。結果、日本はまれにみる豊かな国となったのである。それが現在我々が眺める日本の風景である。
 しかし、この長く続いた豊かな社会はいつしか開拓者の精神を喪失してきた。現在の日本は未曾有の不況にあえいでいる。仕事がないのである。それは本文に書いたように、いつしか日本は「下請立国」になってしまったのである。一億総じて注文待ちの状態である。この状況は開拓者がいなくなり耕作者だけの社会では必然の帰結である。有から有を生む耕作者の姿勢は基本的に下請け姿勢であり注文待ちの姿勢なのである。日本人は今、危機感を持ち始めている。しかし、その危機感とは未知に挑戦する危険に対する危機感ではなく、今までの安定と平穏な生活が失われるのではないかという安定基盤の喪失に対する脅迫観念的危機感である。言い換えれば会社が倒産する恐怖であり、職を失う恐怖であり、給料がなくなる恐怖である。現代人の多くはこの脅迫観念的恐怖に突き動かされて行動している。言うなれば「受動的危機感」である。これはかっての日本人にはみられなかった危機感であり、安定と平穏と豊かさを享受してきた者のみが抱く危機感でもある。かって開拓者であった日本人の危機感とは不安定と混乱と貧しさから立ち上がった、言うなれば「能動的危機感」であった。
 安定を求めると不安定になり、不安定を求めると安定になるとはこの稿の述べるところである。
 私も若い頃にはロッククライミングをしていたが、岩壁で落下しないためには体をできるだけ壁面から離すことである。つまり、体を空中に投げ出すのである。これにより支持点である両足に重心が移動し落下しにくくなる。しかし、恐怖感のあまり壁面にしがみつこうとする、すると逆に重心が壁面に移動し落下し易くなる。これと同様なメカニズムがこれら2つの構図に作用する。生きようとして生きれず。死のうとして死ねず。知に偏して解決できず等々。これらの構図はすべてこれを物語る。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」のことわざのごとく、身を救うためには身を捨てることこそ肝要である。現代日本人が安定を求める限り不安定は続く。政府の言う「ソフトランデング」とはまさに安定を求め不安定になる方策でもある。日本が真に再び安定路線に回帰するためには安定に対する脅迫観念的希求から訣別し、不安定をものともせずに挑戦する開拓者になる決心をした時であろう。それはアメリカの繁栄がヨーロッパから移住してきた貧しき人々の西へ西への幌馬車の隊列と夢に燃えて明日に賭けた開拓者としてのフロンティアスピリットを基盤とすることを考えれば了解されるであろう。しかし、養鶏場の鶏が安定に満ち住みごこちのよい鶏小屋の扉を自らの意志で開けて寒風吹きすさぶ荒野に出て行くことは言うは易し行うは難しである。だがそれに耐え100mも歩けば自然野菜の宝庫が横たわっているのであるが ・・・。
 私は現在までずっと開拓者の道を歩んできた。それはつらく困難な道ではあったが感動と喜びの花畑に満ちた道でもあった。その開拓者魂の真骨頂がこの著作であろう。一介の技術者が挑むにはあまりに大胆で身の程を知らぬ暴挙、一匹の蟻が巨大な象に挑む姿である。だが「一寸の虫にも五分の魂」の例えのごとく、我、開拓者魂、死しても止まずの心意気は気宇壮大である。
 これを書き終えた今、私の精神は充実しており、また限りなく静かである。それはかって幼き私が見上げた寒風が吹き抜け雲一点ない碧空の蕭条たる風景である。
                                                         (1998.11.28)
いつかどこかで
 2002年8月から始まった「知的冒険エッセイ」の連載に、2009年8月からは「信州つれづれ紀行」の連載が同時進行で加わりました。「知的冒険エッセイ」と「信州つれづれ紀行」は互いに相対性と相補性を具備した「Pairpole」であり、パラレルワールド(平行宇宙)を構成しています。前者は意識宇宙の時空の旅を描いたものであり、後者は物質宇宙の時空の旅を描いたものです。
 そのどちらに「宇宙の真象(宇宙の心)」があらわれているのかを断ずることはできません。それは1枚の紙の表裏が判然としないのと同じです。物質と意識の狭間は渾然一体となって行けども行けども漠としていまだに見通すことができません。 
 ともあれ ・・ 遥かな旅路の空の下 ・・ 「いつかどこかで」その素顔の断片らしきものにでもめぐり逢うことができれば幸甚これに勝るものはないのですが ・・・。

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