Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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色即是空〜あると思うとない
 「色即是空 空即是色」とは般若心経の神髄である。 「色」とは有であり、存在を意味し、「空」とは無であり、非存在を意味する。直訳すれば「在ると思うと無い 無いと思うと在る」となる。観自在菩薩が深く修行をしていたときにわかったこの世の実相である。
 観自在菩薩とは観音菩薩のことであり、自在に音を観ることができる菩薩である。凡人にとっては音は耳で聞くものであるが、菩薩ともなれば衆人の「声無き声」を聞くために音は心で観なければならないのである。かくして観音菩薩に観えた世界が「有ることは無いことであり 無いことは有ることである」という、およそ凡人の認識をもってしては理解不能な世界であった。
 般若心経を貫く精神は只々この「色即是空」に集約できる。凡人にその世界が観えないのは「認識のめがね」を通して見るからである。
 砂漠で道に迷った旅人が飢えと乾きでさまよい歩いている。夜の暗闇の中で水溜まりを見つけた旅人は清水を飲むかのごとくにその水を飲んだ。夜が明けて光の中で見たその水溜まりはボウフラが浮かぶ腐った水溜まりであった。もう旅人はその水を飲むことはできない。昨日は飲めて、今日は飲めない。水には変わりがないのであるが、認識が作用したとたんに同じ水ではなくなってしまったのである。
 人が人を恋するのも同じである。女性は世界に何億人といるのであるが、彼が恋したその女性はこの世にたった1人しか存在しない絶世の美女であるし、彼女が恋したその男性は、これまたこの世にたった1人しか存在しない勇敢で心やさしいヘラクレスなのである。だが恋の夢から醒めた彼や彼女はいきなりそれが幻滅の対象へと変わってしまう。彼や彼女の本質は何も変わってはいないのに心変わりをしたとたんに別の世界が現れるのである。
「あると思うとない ないと思うとある」とはかくのごとくである
 では凡人をもって「色即是空の世界」を観ることは可能であろうか ?
 方法をしいて提示すれば「右脳のみで観る」ということである。 右脳は情緒や感情である直観を働かす脳であり、左脳は知識や記憶である認識を働かす脳である。 であれば、認識のめがねを通さずに世界を観るとは、その認識を働かす「左脳を停止させて観る」ことに他ならない。
 したがって右脳で直観した何事かを言語という認識で表現することはできない。
 長島監督の直観から生まれた野球采配は言葉では表現できない。 また巨匠ピカソの絵画は認識では理解されない。 すべて長島監督が直観した何事かであり、ピカソが直観した何物かである。 観客である我々は彼らの直観した何事と何物を直観するしかないのである。
 ゆえに試合解説や文芸批評はすべてこの何事と何物を伝えるものではない。
 伝え得るものがあるとすれば、その試合が何月何日であったこと、試合の展開はかくあったこと、またその絵画展の開催期間がいつであったこと、入場者数がかくあったということ ・・ ぐらいである。
以下は右脳のみで描いた「色即是空」の苦肉の風景描写である
お金に固執するとは固執しないことであり お金に固執しないとは固執することである
成功に固執するとは固執しないことであり 成功に固執しないとは固執することである
その人を信じるとは信じないことであり その人を信じないとは信じることである
その人を愛するとは愛さないことであり 愛さないとは愛することである
人生を生きるとは生きないことであり 人生を生きないとは生きることである
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2016.06.30


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