Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

宇宙の心
 展望なき社会。 「社会」という表現はもはや賞味期限切れの観があるので、より普遍的な「世界」と呼ぶことにしよう。 「展望なき世界」とはいかなるものであろうか ・・?
 世界が多くの人々の集合でできていることからすれば、「展望なき」とは多くの人々が展望をもっていない世界ということである。 このような世界の突破口をひとりの展望で拓くことは大いなる徒労を覚悟しなければならない。 それは成績不振の野球チームやサッカーチームを眺めれば了解されよう。 負け続けているチームを回生させることはいかなる名監督をもってしても至難の業である。
 最良の策は言うまでもなく「勝つ」ことであるが、そのためには「鶏が先か、卵が先か」という二律背反のジレンマを克服しなければならない。 かくなる自己矛盾を脱して負け続けているチームが勝ちに転じるきっかけは「ふとした幸運」によってもたらされる。 逆に勝ち続けていたチームが負けに転じるきっかけもまた「ふとした不運」によってもたらされる。 しかしてこれらの運不運をもたらす源泉は人智を超えた「天の采配」である。
 20世紀初頭、相対論の創始者アルベルト・アインシュタイン(ドイツ1879〜1955年)と量子論の創始者ニールス・ボーア(デンマーク1885〜1962年)は互いの真理に対して激しい論争を繰り返した。
 以下の記述は「皇帝の新しい心 / 第889回」からの抜粋である。 第一級の科学者がとらえる「天の采配」を語って象徴的である。
 量子論のボーアは「夜空に浮かぶ月は見上げて見ているときには確かにあるが 俯いて見ていないときにはあるかどうかはわからない それは確率の問題だ」という世界観を主張した。 その主張に対する相対論のアインシュタインは「そんな馬鹿なことはない 見ていようが見ていまいが月は確かに夜空にある 神はサイコロをふってこの世界を創ったわけではない」と反論した。 その反論に対するボーアの回答は「神に向かってあれこれ指図するのはやめなさい ・・ 」というものであった。 この論争の決着は100年近くたった今もなおついていない。
 おそらく科学文明がこの先いくら進歩したところで天の采配を制御することは不可能であろう。 天の采配を換言すれば「宇宙の心」ということになろう。 宇宙の心を科学は制御できるのであろうか ・・?
 自らの心さえままならないのにそれが可能だとは到底思えない。 まずは自らの心をまともにすることが先決である。 外なる世界の展望が行き詰まってしまった現在、内なる世界の展望を拓くことこそが喫緊の課題なのである。

2016.06.22


copyright © Squarenet