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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

知的冒険エッセイ / 時空の旅
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失われた風景〜北国の春に想う
 核家族化が完成した現代社会では、千昌夫の「北国の春」に登場する ・・ 兄貴も親父似で 無口なふたりが たまには酒でも 飲んでるだろか あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな ・・ という風景を今や見ることはない。この曲がリリースされた1977年当時、こぶし咲き、山吹、朝霧、水車小屋、わらべ唄が聞こえる北国の春は確かにそこにあった。だが高度経済成長と呼ばれる社会変化の中で進展した核家族化によっていつしか消失してしまったのである。
 親は親、子は子という生き方は、確かに互いの束縛を解き放ち、自由な生活を実現したかもしれないが、それゆえに失ったものも少なくはない。現代社会が顕在化させた老々介護、独居老人、孤独死、少子化、子育て支援、約6人に1人と言われる子供の貧困化 ・・ 等々の諸問題の多くはこの進展した核家族化に端を発していると言っても過言ではない。
 以下の文章は科学哲学エッセイ「Pairpole」(平成11年2月28日初版第1刷発行)に掲載したものである。今を遡る17年前になる。
父が始めて息子が展開し孫が完成させる
 西欧の歴史建築は荘厳で威厳が漂う。聞くと、その教会の聖堂の建築には400年あまりを費やすという。日本で考えれば戦国時代(1600年)に着工した建物がようよう現代(2000年)において完成するようなものである。日本にはそのような悠長な事業は存在しない。建物の設計者はだいたいにおいて生きてる間に完成を見ることができる。しかし西欧の400年をかける聖堂の建築においては設計者どころか、基礎工事に関わった人も柱組に参加した人もともに聖堂の完成を目にすることができない。付近の人々はオギャーと生まれてから死ぬまでに見たものは基礎工事だけである。このようにして完成した聖堂に威厳や荘厳さが漂うのは当然であろう。それは人類の意志に対する畏敬の念である。
 それに対して、我が日本のそれは何とインスタント事業であろうか。ペラペラの紙細工のごときである。ゆえに今、我が国に必要なことは物事の完成に3世代かけることである。父が始めて息子が展開し孫が完成させる。そうすれば少しはましな事業となるに違いない。また父は息子の教育に熱心にならざるをえず、今風の親子断絶などたちどころに解消する。また今の日本人のごとくのあくせくとした生き方も解消され、生活に余裕と潤いが戻り、本当の価値に目覚めること必定である。
 つまり、これはリレー競技のようなものである。私が追い抜かれても息子が追い抜いてくれるに違いないし、息子がだめでも孫が成し遂げてくれるに違いないのである。
 今読み返すと当時すでに現代社会の陥穽や核家族社会の弊害を予期していたことがうかがえる。核家族社会とは言うなれば「ばらばらな社会」である。父が築き上げた100mの高台に立って、その子が次の100mを積み上げ200mとし、その子の子が積み上げられた200mの高台に立ってさらに100mを積み上げ300mにすることができない。いつまでたっても100mのままである。
 つまり、冒頭の北国の春の ・・ 兄貴も親父似で 無口なふたりが たまには酒でも 飲んでるだろか ・・ のくだりは、親父から兄貴に言葉では伝えられない「何か」を受け渡している風景なのである。それは学校で学ぶ知識と呼ばれるようなものではなく、親父に代わって走り継ぐ兄貴のこれからの人生を支える「知恵」、あるいは「コツ」のようなものであろう。今風に言えば「ノウハウ」ということになろうか。
 日本は経済的にはそこそこのものを手にしたのかもしれないが、反面で最も大切な何かを失ってしまったのかもしれない。

2016.04.08


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