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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

知的冒険エッセイ / 時空の旅
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美空ひばりの風景〜歌の里に思う
 「美空ひばり歌の里」と名付けられた美空ひばりの記念館(資料館)は信州伊那谷を眼下にする東方山麓の高台にあった。伊那谷を隔てて西方には中央アルプスの山並みが障壁のように横たわっている。訪れたのはもう数年も前になろうか。信州の片田舎になにゆえに美空ひばりの記念館が建つのかが不思議との思いにかられてのことであった。
 静かな山麓にたたずむささやかな記念館といった外観であったが、館内には美空ひばりに関するありとあらゆる資料(映画・公演のポスター、パンフレット、チケット、各種レコードとジャケット、映画・舞台で使用された衣裳、CD、DVD、ビデオ、新聞、雑誌、書籍、直筆の原稿、書簡等々)が所狭しと展示されていた。これらのおびただしい資料の数々は館長(小沢さとし)個人が収集したものがもとになっているのであるが、日本各地の美空ひばりファンから寄贈されたものも多数含まれているという。小沢さんは物静かでひかえめ、ロマンスグレーをその身に湛えたひとであった。美空ひばりとは仕事というよりは麻雀仲間であったことを楽しそうに話してくれた。仕事を離れて見せた彼女の生き生きとした「笑顔」が目に浮かぶようであった。当時、小沢さんは東京で童謡の作詞のような仕事をしていたようであるが、なにゆえに美空ひばりと懇意になったのかの話はなかった。だが美空ひばりを敬慕している思いの深さはひしひしと伝わってきた。
 あとで知ったことであるが、小沢さんはひとつ歌謡曲の作詞をしている。その経緯を著書「もうひとりの美空ひばり」の中で以下のように書いている。
 昭和50年の暮頃だったと思います。 ある日、思いがけず、美空ひばりさんから電話がかかってきました。 「明日、午後、歌の吹き込みをやりますから、赤坂のコロムビアまできてください ・・ かならずね」 私はなぜ急に呼び出されたのかまったくわかりませんでした。 多分、歌の世界のことに関してはほとんど知らない私に、レコーディングというものの現場を一度見学させてやろおうというひばりさんの親心、というより姉心だったと思います ・・・ (中略) ・・・ 前奏が終わって、ひばりさんが大きく肩で息をするのが窓越しにはっきりと見えました。 それから静かに、おもむろに、いつも聞き慣れていた声が耳に入ってきました。 しばらく、じっと耳を澄ましていた私ですが、突然体中に衝撃が走りました。 なんと、その時ひばりさんがうたっていた歌の詩は、前に私がひばりさんへの手紙の中に書いて送った「歌の里」という詩だったのです。 その詩に船村徹が曲をつけて、その日のレコーディングとなっていたのでした。 それにしても、そのことを私はコロムビアの関係者からも、ひばりさんからもまったく知らされていなかった上に、ひばりさんはそんなそぶりさえ見せていなかったので、私は、ただ、うろたえるばかりでした。
 つまり、「美空ひばり歌の里」という館名の「歌の里」とはこの意味だったのである。 しかしてそれは「美空ひばり芸能生活30周年記念曲」でもあった。 美空ひばりが小沢さんのために示した優しき思いの「いかなるか」にこれ以上付加する言葉はいらない ・・ おして知るべしである。 そしてこの「歌の里」の歌碑が館の玄関脇、「美空ひばり歌の里・自然森林公園」の入り口に立っている。 歌碑の周りは船村徹が植樹した桜、石井ふく子はじめ多くのファンから寄贈された約3000本のツツジ、その他多くの草花でとりかこまれ、季節が来れば花を咲かせるという。
 館を去るにあたって、もうひとつ「思いした」ことがある。それは美空ひばりが着たステージ衣装を目の当たりにしたときのことである。あまりの小ささに驚いた。例えて言えば、現代の小学5〜6年生の女生徒が着てちょうどというようなサイズであった。これほど小柄であったかという嘆息の思いが充ちてきた。テレビで見た美空ひばりの大きさは美空ひばりが背負った意識が見せた大きさだったのである。不意に哀憐の情が胸をおそった。それはまた戦後の日本を勇気づけ、支え続けてきた不世出の大歌手、美空ひばりの「素顔」をかいま見た瞬間でもあった。
 歩みでてふと振り返った歌の里、ひばりの「あの微笑み」が優しく見守っているかのようであった。

2015.10.20


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