Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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風のガーデン
 「風のガーデン」(2008年10月9日〜12月18日、毎木曜日放送)は本格的なドラマ制作ができなくなってきたテレビ業界の様相を嘆いた脚本家、倉本聰がこれが最後と手がけたドラマである。死を前にした主人公、白鳥貞美(中井貴一)が絶縁していた家族のもとへ戻っていく過程を通して「生きること、死ぬこと」の意味を描いた人間ドラマである。 ドラマに生き生きとしたリアリティをもたせるために、北海道富良野に広大なブリティッシュガーデンを2年がかりで造成、365種に及ぶ草花を植栽、美しい癒やしの空間を創りだした。 富良野を渡る風にそよぐ季節の草花で敷き詰められたガーデンの風景はこのドラマを象徴して印象的であった。
 本題は最終回での以下の場面である。
 膵臓ガンが進行した貞美は父、貞三(緒形拳)の小さな診療所の病床に横たわっている。貞美は父、貞三に向かって息もとぎれとぎれに子供の頃のことを語りだす。

「父さん、家庭っていいもんですね」
「ああいいもんだ」
「このまえ、ふと思い出したんです・・・中学生だった頃、ぼくがだだこねて、この部屋にテレビ入れてくれって、強引にテレビ買ってもらって・・・」
「そんなことあったな」
「はじめてこの部屋で、ひとりでテレビみた・・・確かドリフターズの全員集合だったような気がします・・・ひとりでへらへら笑いながらみてて・・・突然、ふと寂しくなったんです・・・不思議な強烈な寂しさだった・・・誰もいっしょに笑ってくれない・・・笑ってくれるものがいっしょにいない・・・情けない話ですが・・・泣いたんです・・・そのとき僕・・・・みんながいる居間にすっとんでって・・・もうテレビなんかいらないって言おうと思った・・・・思えばそれが僕が自分から家庭を捨てた日だって思うんです・・・・・このまえルイ(長女/黒木メイサ)と岳(長男/神木隆之介)から裸足になろうと言われましてね・・・ガーデンで・・みんなで歩いたんですよ・・・裸足になって芝のうえを・・・土のうえを・・・ふたりと手をつないで・・・あいつらの手の温かさ柔らかさ・・・気づいたら涙があふれ出してた・・・・僕は何も知らなかったんですね・・・・何も知らずにあいつらに何もしてやれなかった・・・・」
「過去形で言うのはまだはやいよ・・これから君は最期の闘いを、闘う姿をみせてあいつらに勇気を教えてやるんだな・・」
「そうですね・・・」
「岳にはみせられんが、ルイにはみせてやれ」
「そうですね・・・・ほんとうにそのとおりだ・・・・・」

 主人公、貞美の独白は我々多くの現代人の独白でもある。 現代人は社会が近代化して行く中で自由な生活を欲するがゆえに多くの大切な何かを失ってしまった。ひとりでへらへら笑いながら全員集合をみていた貞美が突然おそわれた強烈な寂しさとは、自らの自由を求めたがゆえに失われてしまった我々現代人が感じる虚無にも似た喪失感であろう。
 家族を置き去りにして都会を目指し、自らの自由を遮二無二求めて奔走した貞美がたどり着いた場所とは、その旅の原点であった富良野の自然であり、その土のうえに裸足で立つことであり、ともに笑うことができる変哲なき家族であった。
 巷間、「俺は自由だ」、「私は自由だ」が連呼されるようになって久しい。 だがその結果が 「もの音ひとつしない高層の億ションのラウンジでひとり夜景を眺めているような世界」 であったとしたらあまりに哀しく虚しいと言わざるを得ない。
 かってこれに似た状況を 「ひと花咲かせる(第480回)」 で以下のように書いた。
 「ひと花咲かせてやろう」との意気込みは、その「咲かせた花を誰に見せるのか」という目的対象者がいなければ、誠に「寂しいかけ声」である。 しかし、その花を見て、たとえ「ひとりでも喜ぶ人がいる」のであれば、ひと花咲かせる意義は充分にあるということができる。 (2004.9.28)
 話は前後するがドラマの中で最愛の息子、貞美を見送った父親役、貞三を好演した緒形拳はドラマ完成とともにこの世を去っている。 2008年10月9日、放送開始された第1話の冒頭に「この作品を 故 緒形拳さんに捧げます」というテロップが挿入された。 名優が伝えたかった思いは「名残香」のようにドラマの中に永遠にのこされたのである。

2015.07.08


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