Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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遥かなり絵島(2)〜山上の楽土を夢見て
 「遥かなり絵島(1)〜泣きぬれて暮れゆきて」(第843回)を書いたのは2015年1月3日のことである。その中で絵島の墓所は蓮華寺の他に遠照寺に分骨されたことを記した。その遠照寺をいつかは訪れたいと思っていたのだが機会は意外にはやくやってきた。
 遠照寺は日蓮宗の寺であり創建は平安時代(860年)に遡る。釈迦堂は国の重要文化財に指定されてはいるが現在では牡丹寺としてのほうが知られている。5月下旬から170種類、2,000株にのぼる鮮やかな牡丹の花が境内を埋め尽くすという。訪れるならばその牡丹の花が咲く頃がいいとさだめ、5月の風に誘われるようにして訪れた。
 高遠城址を過ぎ秋葉街道と呼ばれる街道をさらに南アルプス山麓に向けて車を走らせる。やがて美和ダムの堤体が障壁のように現れる。豊かな水量を蓄えたダム湖がエメラルドグリーンに輝いている。そこからは街道を左折して山室川に沿って山道をさらに6キロ程登ると遠照寺に行き着くはずであった。だが行けどもなかなか現れない。道を間違えたかと疑念が浮かぶ頃にようやくささやかな集落の中にその寺影を認めた。
 牡丹の見頃とあって駐車場は満杯であった。山門から続く参道の両側は色彩豊かな大輪の牡丹で敷き詰められ、参道を登るにつれて心もしだい艶やかに染まっていく。蓮華寺の墓所を考えていたせいか、目当ての絵島の墓を通り越してしまい、坂道を登り詰めた高台にある人影も途絶えた奥の院まで行ってしまった。引き返してみると意に反して往来激しき小さなお堂の裏手、もろびとの墓に混じって絵島は眠っていたのである。ささやかな墓石に添えられた案内板がなければ誰も見つけることはできないであろう。以下の記載はその案内板に書かれた由緒の写しである。
絵島様分骨の墓
高遠へ流された最初の六年間、長谷村非持の火打平(ひょうじだいら)の囲み屋敷にいた頃、絵島様は、漢学の書を借りたことが縁となって遠照寺に参詣するようになりました。絵島様はそこで、当時界隈きっての名僧と謳われた遠照寺中興の祖、見理院日耀上人と出合い上人に導かれて、女人成仏を説く法華経の教えに深く帰依するようになったといいます。遠照寺では、藩の許可を得て「絵島の間」なる一室を設けて絵島様を迎え、絵島様は、日耀上人の法話を聞き上人と碁を打つのを唯一の楽しみとしたと言います。流人生活を送られる絵島様にとっては、厳しい冬の中に訪れた小さな日溜まりのような魂の安らぎの日々でありました。高遠での絵島様は、一汁一菜の厳しい精進潔斎のうちに自らを律し、法華経の転読と唱題を日課として、み仏に帰依した静かな日々の中に後半生を送られたといいます。それは、自らの罪への激しい坑がいと贖罪の日々でもありました。寛保元年(1741年)旧暦四月十日寂、享年六十一歳、法号 信敬院妙立日如大姉、墓地には遺言により歯骨と毛髪が納められています。
 絵島様という表記が何とも微笑ましい。通常はどこでも「絵島」である。300年前に村人が絵島に抱いた思いが今なおこの地にこのように語り継がれているのであろう。墓石に並んで石面に刻まれた小さな歌碑が置かれている。
浮き世には また帰らめや 武蔵野の 月の光の かげもはづかし
 絵島を高遠に向けて護送する錠前つきの駕籠は、正徳4年(1714年)3月26日、午前4時、四谷を発った。囚人駕籠に身を入れるときは、裁きの場では気丈だった絵島が声をあげて泣いたという。その江戸出発の折に絵島が詠んだと伝えられる歌である。
 日耀上人との出逢いは絵島が囲い屋敷の役人を通じて朱子学の本を借りたのがはじまりというが、流人としての高遠での生活の楽しみは、おそらく遠照寺を訪ねて日耀上人の法話を聞き、上人と碁を打つことの外にはなかったであろう。 それにしても麓の火打平にあった囲み屋敷から6キロの山道をたどることは大奥女中の足ではさぞや大変なことであったであろう。おそらくは山室川に沿って付けられた山道を渓流音を聞きながらゆっくりと歩をすすめたであろう。絵島の姿が彷彿と浮かんでくる。絢爛たる大奥の世界から瞬く間に鄙にも希な山奥の世界に落とされた我が身を絵島はその刻いかなる気持ちでながめていたのであろうか。
 だが「絵島の間」なる室を設けて迎えられたとする遠照寺での待遇は他の資料からは考えられない程に厚遇である。先の絵島様の表記と相まって歴史は多くを語ってはくれない。 絵島が訪れた頃に牡丹がかくこのように咲き誇っていたのかは知るよしもないが、あるいは絵島の目を楽しませる程には咲いていたのかもしれない。艶やかな牡丹の大輪は大奥女中の絵島には違和感なく似合っているし、その花影には時空を超えて絵島の息吹が漂っているかのようである。 過酷な人生を背負わされた絵島ではあったが遠照寺での安らかなひとときはせめてもの慰めであったに違いない。
 帰路、山麓を駆け下り、美和ダムを通過し、こころなくぼんやりとしていた私の視界に路側に立てられた「絵島火打平囲み屋敷跡」という小さな表示板が飛び込んできた。 それはあたかも絵島が私を呼び止めたかのような出来事であった。行き過ぎてしまった車を戻して私はそこに駐めた。 屋敷跡はこの上の高台にあるとみえ半分埋もれかかった小道が斜面に付けられている。鬱蒼とした藪の中を蜘蛛の巣をはらいながら少し登ると苔むした大石で築かれた屋敷跡に出た。屋敷などは残っているはずもなく30坪ほどの平地が昼下がりの陽をあびて静まりかえっているばかりである。高台の下を流れる山室川の川音が山鳥の声に乗ってかすかに聞こえてくる ・・・・・ /
 高遠への配流が下され絵島は前掲の歌を残して江戸四谷を発った。80余人の護送のもと錠前つきの駕籠であったという。たどり着いた先がここ火打平の囲み屋敷であった。 6年間に渡る幽閉のあと、西方4キロ程の距離に位置する高遠城三の丸の囲い屋敷に移され、61歳で寂滅するまでの22年間をそこで過ごした。 高遠へ配流された年齢を計算すれば33歳となる。絵島の年齢で以上の経過を記載すれば、33歳〜39歳までの6年間は火打平の囲い屋敷、39歳〜61歳までの22年間は高遠城三の丸の囲い屋敷となる。都合28年間に渡る流人生活であった。 その間の絵島の消息はくまなく拾ってみても以下のごとくのものしか見いだせない。
 高遠に流されてからの絵島の生活は自己に厳しいものであり、蓮華寺に残る検死問答書に日常のことが細かく記されている。その一例を食事の面にみると、半月は精進日を設けて魚類を断つ生活をし、4年後の38歳からは全く精進の毎日で、死去するまでの24年間は魚類を全く断つ生活をおくっている。 死に臨んで絵島は「墓は蓮華寺に」と告げ、再び江戸の土を踏むことなく、寛保元年(1741年)4月10日、61歳でその生涯を閉じた。 絵島は江戸在城中より日蓮宗の信者であったため、蓮華寺二十四世本是院日成上人の導きを受け、蓮華寺後丘に埋葬された。 戒名「信敬院妙立日如大姉」、妙経百部の回向を受け、永代霊膳の丁重なる扱いを受けた。 同時に絵島の遺言により遠照寺にも分骨され歯骨と毛髪が納められた。
 火打平の囲い屋敷から遠照寺まで6キロ余、高遠城三の丸の囲い屋敷からとなれば10キロ以上ともなろう。28年間の流人生活を通じて絵島は幾度山上の遠照寺を訪ねたのであろうか。火打平の囲い屋敷から山上を仰ぎ見るとき、そこに天上の楽土を思い描くのは私だけではあるまい。 あるいは絵島もまた遠照寺が在る山上の世界に「永遠の理想郷」を夢見ていたのではあるまいか。
 / ・・・・・ 不意に5月のそよ風が高台を吹き抜けた。 先ほどまで網膜にとどまっていた色艶やかな牡丹の花はいっせいに天空高く舞い上がり、300年の歳月は刹那のうちに行き過ぎていった。 あたりはもの音ひとつなくしんとしている。
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2015.06.14


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