Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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御嶽山
 御嶽山の噴火災害はまことにもって不条理な出来事である。おそらく入山した登山者の誰一人として、そのとき御嶽山が噴火するなどとは思っていなかったであろう。生死を分けたものとは、そのとき御嶽山に登っていたことであり、より言えば山腹の何合目にいたかである。なぜにそこにいたのかを問うてみても答えはない。ゆえに不条理なのである。

 かってとある法事で同席した僧侶にこの不条理について尋ねたことがある。「さまざまな事故や事件で不慮の死をとげる人の生死を分けた理由を仏教ではいかに説いているのでしょうか?」、しばらく考えたあと「・・わかりません」と誠実に答えてくれた。善行には善の、悪行には悪の報いがあるというのだが、この世はそう単純ではない。善行、悪行に関係なく不慮の死は容赦なく訪れる。本能寺で信長が発した「是非もない」のごとくである。理由を現代人が崇拝する科学的合理主義をもって追求してみても答えが得られることはないであろう。不条理とはそういうことである。

 これらの是非なく訪れる不条理に、人としてできることは、唯一「祈る」ことでしかない。ゆえに原始いらい、人は時に応じ、事に応じて祈ってきたのである。他の生物が「祈る」かどうか知るよしもないが、人は祈ることによって人であり得、よっていかなる不条理をも乗り越えていく力を秘めているように私には思える。山上で遭難したひとりひとりの最後の祈りが、あらゆる不条理を超えていくものであったことを願わずにはいられない。

2014.10.03


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