Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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東日本大震災に思う
 2011年3月11日、東北地方太平洋岸を大震災が襲った。その時をもって日本の様相は一変した。それから2年以上の月日が流れた今もその様相はとどまることなく変わり続けている。以下は「どこでもウィンドウ映像紀行」の中から抽出した「震災の記憶」である。哀しみの風景、鎮魂の風景、慚愧の風景、希望の風景、不屈の風景、涙している風景、祈りの風景、再生の風景、悠久の風景・・等々。そのとき列島の片隅に確かに象出していた「風景の思い」が収録されている。

2013.08.22



2011年4月/信州国際音楽村/長野県上田市生田

春は来たものの
 10万本の水仙がみごとに咲き匂う信州国際音楽村を訪れた。春霞がたなびく穏やかな日よりで、小諸、佐久平を一望する丘陵地の高台からは遠く浅間山も眺めることができた。だが訪れた人々が「どことなく静か」であるように感じられた。春は来たものの東日本大震災が人々のこころに深く影を落としていることは紛れもない事実であった。



2011年4月/六道の堤 追憶の井月/長野県伊那市美篶

鎮魂歌
 桜で有名な高遠に向かって車を走らせている道すがら小さな池の周りに咲く桜並木が目にとまり立ち寄った。冷たい雨が降るあいにくの天候で人影は途絶えていた。ぬかるんだ堤の上で傘を片手にその桜並木を撮ったあと、ぽつんとたたずむ句碑を読んだ。                         

何処やらに 鶴の声聞く 霞かな

 その時は伊那にはこんな放浪の俳人がいたのかという程度の関心であった。その堤が「六道の堤」と呼ばれ、その句碑が井月(せいげつ)そのひとの絶筆であることを知ったのは半年以上も後のことであった。きっかけは井月の映画化(ほかいびと〜伊那の井月〜)である。製作費約3900万円。監督はその六道の堤付近(伊那市美篶)出身の北村皆雄氏、井月役は映画「たそがれ清兵衛」で日本アカデミー賞助演男優賞を受けた舞踊家の田中泯さんである。その映画を紹介する地元テレビのニュース番組で私が撮影したカットと同じ、しかも雨降りの中で咲く六道桜を背景にした撮影ロケ風景がながれたのである。その後、気になって井月のことを調べるにつれて、かくも凄い俳人が伊那の地にいたのかと瞠目させられることになった。今となればこの堤に私を立ち寄らせたものとは、あるいは東日本大震災に打ちひしがれた現代日本人に捧げる井月の鎮魂歌の切なる調べであったのかもしれない。

※伊那谷を放浪した井上井月とは
 弘化元年(1844)3月、上信越地方を巨大地震が襲い、長岡城下も大きな被害を受けた。江戸表に勤めていた長岡藩士、井上克蔵(後の井月)のもとに、地震で倒壊した家屋の下になり両親、妻そして娘の一家全員が亡くなった知らせが届いた。急いで長岡に帰った克蔵を待っていたのは、愛しい家族を埋葬した墓しかなかった。克蔵は虚しく江戸に戻った。克蔵は昌平黌で主席になるほどの逸材で、この時も古賀茶渓の久敬舎に通い、まわりから将来を嘱望されていた。江戸に戻った克蔵は、以前と同じように勤勉に勤めていたが、久敬舎に通わなくなり、次第に俳諧に没頭するようになった。河井継之助とは江戸藩邸で顔見知りで、継之助は5歳年長の文武に優れた先輩格の克蔵を尊敬していた。
 数年後、信州の伊那谷に、越後の生まれで井月(せいげつ)という俳人が現れた。決して過去を語らず、みすぼらしい身なりをしているが、俳句の知識と詠みは抜群で、書を書かせるとこれは名人の域に達していた。腰には瓢箪を下げ酒をこよなく愛する奇人は、俳句や書のお礼に酒を振舞われると、「千両、千両」と言うのが口癖であった。
 井戸に映る月、または四角の月から井月と名乗り、伊那谷の知識人に愛された井月は、伊那谷に入ってから一度も故郷に戻らなかった。生涯に1700の句を詠み、明治20年(1887)臨終の床で筆を取り、辞世の句(前掲の絶筆)を残した井月は長い放浪の旅を終えた。享年66歳であった。



2011年5月/ともしび博物館/長野県上田市武石

灯り
 上田市武石にある「ともしび博物館」を訪れた。5月連休中であったが館内は訪れる人もなくひっそりとしていた。博物館は、灯りを作りだす「体験館」、映像を通して灯りを知る「伝承館」、灯火器を展示する「展示館」から成っている。職員は1人しかいないとみえ、その女性職員が孤軍奮闘、受付から体験館での木の棒を回転させての発火法、火打石を使っての発火法を実演してくれた。縄文のいにしえを垣間見るようであった。日本で電灯が普及したのは明治維新以降のことであり、縄文の世からの長い歴史時間からみれば、それはつい最近のことである。その短時間の中で日本は原子力発電にまで行き着いたのである。だが東北大震災にともなって起きた福島原子力発電所の事故により、世界中で「いちばん美しいと言われた日本の自然」を放射能で汚染してしまった。残念であるとともに、その自然を育んだ縄文人には申し訳がたたない。そんなことを考えながら館を出ると、そこには静寂に包まれた日本庭園が昼下がりの陽射しを浴びてよこたわっていた。それはまさに「刻がとまったごとく」にも、あるいは「刻が永遠に続いているよう」にも感じられる光景であった。



2011年5月/まきば公園/山梨県北杜市大泉町

大器量をもって
 まきば公園は八ヶ岳山麓を小淵沢から野辺山に至る高原道路の途中にある。車窓から放牧された羊が散見され、ふと寄ってみたくなって車を駐めた。東北大震災以降、日本は大変な状況に陥っているのであるが、彼らはそんなことども微塵も意にかえすことなく、もくもくと、ひたすらに、草を食んでいた。それを八ヶ岳の大自然が「大器量をもって」包んでいる。たいしたものである。復興は成功するように思えてきた。



2011年6月/新海三社神社/長野県佐久市

わが敷島の大和だましひ
 神社にはめずらしい「三重塔」を撮るため佐久の新海三社神社を訪れた。車載のナビで新海三社神社を目指したのであるが、何のことはない信州の五稜郭といわれる「龍岡城」のすぐ近くであった。龍岡城の脇を通り過ぎてしばらく行くと、東の山腹に新海三社神社が樹齢数百年は経たであろう鬱そうと生い茂る杉木立の中、漂う霊気に包まれて、ひとりぽつねんと鎮座していた。足をとめた境内入口の掲示板に以下の明治天皇御製の一首が和紙に書かれて掲げられていた。

いかならむ 事にあひても たわまぬは わが敷島の 大和だましひ

 東北大震災にあえぐ日本国民に向けて励まし呼びかける明治帝の声が天から降ってくるように感じた私は塔を撮影することも忘れて立ち尽くした。



2011年6月/八ヶ岳自然文化園 まるやち湖/長野県諏訪郡原村

涙しているよう
 訪れた「まるやち湖」は梅雨空の下に横たわっていた。八ヶ岳自然文化園にある小さな湖で、晴れていれば雄大な八ヶ岳の姿を湖面に映すことができる。だが今日は山容が雨霧に没してその姿はない。東北大震災以後、列島の自然はどことなく張りを失い「涙しているよう」に見えるのだが・・それは私だけのことであろうか。



2011年7月/美和ダム湖/長野県伊那市長谷

ことなきを得る
 伊那から高遠を経て長谷に向かって車を走らせると右手に、高さ69.1m重力式コンクリートダム「美和ダム」が見えてくる。ダム湖はエメラルドグリーンの満々たる水量を蓄えて静かに横たわっている。ダム湖をさらに遡上すると「ゼロ磁場」のパワースポットで今話題を集めている「分杭峠」を経て、「大鹿歌舞伎」で有名な大鹿村に至る。日本列島を東西に分かつ「中央構造線」が走るこの地域は地球物理学的にみても特異な空間である。東北大震災以後、この列島の地中奥深くでは何か得たいのしれない力がうごめいているようで気がかりだ。願わくはその力がうまく拡散されてことなきを得ることを願うのみである。



2011年8月/アルプス公園/長野県松本市

あの夏の日
 アルプス公園は松本市街地の北方に位置する小高い山のうえに広がる自然公園である。東北大震災にみまわれた「2011年の夏」は、お盆休みではあってもどことなく静かで遊び回る子供たちでさえ遠慮がちに見える。第2次大戦で敗戦した「1945年の夏」もやはりこのようではなかったか・・あの打ちひしがれた夏の日から立ち上がり日本は見事に復興を成し遂げたのである。夏空に鳴く蝉の声は当時の人々の思いを時空を越えて今に伝えてくれる。



2011年9月/中川村の赤そば畑/長野県上伊那郡中川村

赤き血潮
 白色のそばの花はここでは赤く咲く。話は1987年、信州大学の氏原暉男教授(当時)が、ヒマラヤの標高 3,800mに咲く、赤い花のそばを日本に持ち帰ったところから始まる。信州大学の農場に蒔いてはみたものの薄い色の花しか咲かない。その後の度重なる品種改良、ようようにして真紅の花が咲くそばを作りだしたのである。その赤いそばは「高嶺ルビー」と称される。かくしてヒマラヤの高嶺で咲いた赤い花は、中央アルプスと南アルプスに抱かれた伊那谷、「日本で最も美しい村」と言われる中川村の地に根付き、その永遠の生命を授かる天恵を得たのである。かく見れば、赤いそばの花は、東北大震災を乗り越えていく新生日本の「赤き血潮」のように感じられる。



2011年10月/佐久 長野牧場/長野県佐久市新子田

佐久平の黄昏
 長野牧場は佐久市立近代美術館がある駒場公園に隣接している。この美術館が収蔵する日本画家、平山郁夫の「仏教伝来」を見に来たのはいつのことであったであろうか。この絵に託した平山の強い思いを考えながら公園内を歩いていると、福島原子力発電所の放射能汚染事故との共時性に思い至った。今日、再びここへ来たのは無意識下にそのことがあったからに違いない。平山郁夫は戦時下、広島を襲った原爆で被爆、その後遺症で死をも覚悟するに至る。その中で一筋の光明を求めて描いたのが、玄奘三蔵をモデルにした「仏教伝来」であった。暗雲たれこめる空の下で見えざる放射能と闘っている東北被災地の人々の思いもまた、半世紀の時を越えて、当時の平山の思いと同じであろう。長野牧場の撮影は日も西に傾いた夕刻近くとなってしまった。光が乏しくなった「佐久平の黄昏」は / 暮れ行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛 千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む / という藤村の「小諸なる古城のほとり」結びの一節を思いおこさせた。



2012年12月/小諸高原美術館からの浅間山/長野県小諸市

遥かな時空を越えて
 小諸市街の東北に位置し小諸高原美術館のある高台は浅間山を間近に眺める絶好のビュースポットである。東北大震災以降、日本列島の地下では不気味な蠢動が続いている。地下のマグマの動きは人知を超えて計り知れないが、今日もまた浅間山は遥かな時空を越えて変わることなく悠然とたたずみ噴煙を碧空に向かって吐き出している。



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