Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

表しかない紙
 空海がたどり着いた「マンダラの無限」とは何か。それは私が考えてきた「直観的場面構築」のメカニズムに似る。直観的場面構築とは、意味無く存在していた数々の認識断片がある「きっかけ」によって突如として集合組成し、ある場面を構築するメカニズムである。そしてそれはまたユングが提唱した「共時性」にも似る。共時性とは、身のまわりに発生する「意味ある符号」をキャッチすることで宇宙の目的が察知される現象である。
 これらは顕在意識下に存在する潜在意識や集団的無意識の世界の様相を述べているのだが、現代社会ではこれらの意識世界が物質的な現象世界に直接的に繋がっていないようにみえる。現代人にとっては「目に見える世界」が世界であって、目に見えない世界などは「存在しない世界」なのである。ましてや金銭的利益に繋がらないものなど単なる「たわごと」として、一刀両断されてしまう。はたしてそうなのか・・?

 無が有を支え、死が生を支え、裏が表を支え、無益が有益を支えるがごとく、存在の必然性は50%50%である。もし現象世界しか存在しないとすれば、それは「表しかない紙」の存在を認めることに等しい。だが現代人からすればこの抗弁もまた「こじつけ」以外の何ものでもないと一蹴されるであろうが、あまりに大きな器は「器として見えず」、あまりに長い直線は「曲がっているように見える」ごとく、この「こじつけ」もまた真理なのである。ではなにゆえにこの真理は受け入れられないのであろうか・・?

【 ひとつの結論 】
 「見える世界」と「見えない世界」は相対する「ペアポール」であって「2重螺旋構造」をなしている。さらに言えば、それは陰波動と陽波動の「2重波動構造」である。見える世界と見えない世界のいずれを陰とし陽とするかは人それぞれの好みであるが、陽としての見える世界が隆盛な波動位置においては、衰退した陰としての見えない世界が何を主張しても受け入れられることはなく、逆に陽としての見えない世界が隆盛な波動位置においては、衰退した陰としての見える世界が何を主張しても受け入れられることはない。だが「驕る平家は久しからず」の例えのごとく、波動は時間が経過すれば必ず反転するのであるから、受け入れられない側は、ことの是非を口角泡を飛ばして主張するよりも、「時の流れに身をまかせ」、その刻を待つが得策ということになる。
2012.6.13

copyright © Squarenet