Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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その後の謙信

 15代将軍、足利義昭の頼みに応じ、謙信もまた上洛を決意する。

 謙信の西上は、天正5年(1577年)、永禄4年(1561年)の川中島での信玄との激闘から16年の歳月が経過し、信玄がこの世を去って4年の月日が経っていた。

 織田信長の東海道における信玄への備えは徳川家康であったが、謙信への北陸道における備えは柴田勝家であった。信玄上洛に際しては家康から援軍を頼まれても余裕がなく、佐久間信盛と平手汎秀に3000人の兵をつけるのがやっとであったが、謙信に対しては、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉ら錚々たる援軍を派遣した。

 謙信は能登を瞬く間に制圧、加賀に進攻、自軍をはるかに上回る兵力(織田軍5万、上杉軍3万といわれる)と手取川で激突するも圧勝して加賀を手中にした。

 軍神毘沙門天の「毘」を旗印にした謙信の強さは比類なき天才軍略家としてのものであり、戦後「織田はあんがい手弱の様子、このぶんなら天下統一も容易・・」と豪語したといわれる。さもありなんである。

 織田軍を撃破した謙信は、雪を懸念したのであろうか、そこで進行を止め、関東を平定しようと越後に帰国してしまう。

 その後、関東出陣の日を天正6年(1578年)3月15日と定めたが、同月9日、突如として倒れ、13日、この世を去った。享年49歳。

 能登を征したとき、詩人謙信は、後世「九月十三夜、陣中の作」と言われる傑作を遺している。

    霜は軍営に満ちて 秋気清し  (しもは ぐんえいにみちて しゅうききよし)
    数行の過雁 月三更       (すうこうの かがん つき さんこう)
    越山併せ得たり 能州の景   (えつざんあわせえたり のうしゅうのけい)
    遮莫 家郷 遠征を憶う     (さもあらばあれ かきょうの えんせいをおもう)

 謙信45歳の作。胸中の静謐、星霜歴々としてその気魂蒼天に昇るものがある。

2005.6.08

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