Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

大往生

 人が生きるとはいかなることか・・?

 現代人の多くは「生きる」ことが「目的」であり、「なぜに生きるのか」はその目的達成のための「手段」である。

 人間本来の目的は「なぜに生きるのか」であり、そのために「生きる」のが本筋であると考えるのだが・・・つまり、「なぜに生きるのか」が「目的」であり、「生きる」ことは「手段」であると。

 現代人における、生きることが目的で、なぜに生きるのかが手段であるとすれば、生きる目的のためには、手段であるなぜに生きるのかは、いかようにも変更可能となる。
 さらに問題なのは、本音では、かように目的と手段を入れ換えているにもかかわらず、建前では、なぜに生きるのかを目的とし、生きることを手段としていることにある。

 このような意識の二重構造は、生活様式の多くがご都合主義に至る必然性をはらんでいる。つまり、やっていることと、言っていることが異なることは当然であり、「本音である生きること」が危うくなれば、「建前であるなぜに生きるのか」という「仮の目的」などは、たちどころに霧散霧消してしまうのである。

 だがそうまでして、後生大事に守りぬいた「生きる」こととは、やはり「手段」なのでり、手段を獲得したからとて、目的を失ってしまったのでは、結局は何も得ることはできない。

 中立(ニュートラル)な人生を、50年生きようと100年生きようと、何事も前には進まないのである。

 かような状態で死をむかえるとすれば、その死は単なる「頓死」であり、そこからは何の意味も見いだすことができない。換言すれば「生きていなかった」こととそう大差はない。

 現代人は肝心なところで生き方を間違えているのではなかろうか・・?

 目的はあくまでも目的であり、手段はあくまでも手段であり、この転倒はいかなる理由をもってしても、覆すことはできない。
 人生の目的は、あくまで「なぜに生きるのか」であり、「生きる」ことは、あくまでも手段でしかないのである。

 従って、単なる長寿をもって「人間の幸福」と断定することはできないし、また単なる短命をもって「人間の不幸」と断定することもできない。

 この断定の可否は、ただひとつ「なぜに生きたか・・?」である。

 そのようにしてむかえた死とは「必然死」であり、人間の尊厳に輝く「大往生」である。

 人が生きるとは、つまりはそういうことではないか・・?

2004.3.22

copyright © Squarenet