Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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私の世界
 自分が見る世界の視野に、自分自身の眼は含まれない。自分の眼は、ながめる世界の視野の「限界」に位置している。

 オーストリア、ウィーンに生まれた天才哲学者、ウィトゲンシュタインは「主体は世界に属さない、それは世界の限界である」という独我論を提唱した。


 彼の哲学要旨の幾つかを以下に記す。

・・・世界とは、そうであることのすべてである。世界は、事実の全部であって、物の全部ではない。世界は、諸事実によって、そしてそれがすべての事実であることによって、決定されている。なぜなら、事実の全部こそが、そうであることも、またそうでないことのすべても、決定するからである。論理空間の中の諸事実こそが、世界である・・・

・・・世界は諸事実へと分解される。他のすべては不変のままで、あることがそうであったり、そうでなかったりすることができる・・・

・・・そうであること、つまり事実とは、諸事態の成立である。事態とは、諸対象(事物、物)の結びつきである。事態の構成要素となりうることが、物にとって本質的である・・・

・・・私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。主体は世界に属さない。それは世界の限界である・・・

・・・倫理が言葉に出せないものであることは明らかである。倫理は超越論的である。良き意志や悪しき意志が、もし世界を変えうるとすれば、それはただ世界の限界を変えうるのであって、諸事実を、つまり言語で表現できるものを変えることはできない。要するに、そのとき世界は、そのことによって、総じて別の世界になるのでなければならない。世界はいわば、総体として減少したり増大したりするのである。幸福な人の世界は、不幸な人の世界とは別の世界である・・・

・・・ありうるすべての科学的な問いに解答が得られたとしても、人生の問題はまったく手つかずに残る、とわれわれは感じる。もちろんそのとき、もはやどんな問いも残されてはいない。まさにそのことが解答なのである。人生の問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見出される(長い懐疑の後で人生の意義を悟得した人が、その意義がどのようなものであるかを語りえないのは、まさにそれゆえではあるまいか)・・・

・・・語りえぬものについては、沈黙しなければならない・・・

2003.11.10

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