Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

時代エネルギの奔流
 機能と効率を限りなく追求した工業社会は生活空間を機械的利便性の豊饒で埋め尽くしたが、人類はその工業社会の発展で達成された生活の利便性を享受するよりも、その結果として発生した「貨幣経済の氾濫」に翻弄される状況に立ち至っている。

 生活の利便性の獲得が工業社会発展の目的であったはずなのであるが、今やその利便性製品を売らなければ我々の生活が成り立たないのである。
 奇妙にも人間の生活を豊かにするべき利便性が、逆に人間自身の生活を圧迫し、破綻させようとしているのである。

 工業国日本ではその影響が特に深刻であり、生活維持のためには原価を割ってまでこの利便性製品を売らなければならない過当競争を繰り広げている。

 原価割れの競争とは持久力の勝負であり、いかにして体力の消耗を少なくして相手よりも長く走っていられるかが問われる。そして、この競争に参加する者の誰もが「自分こそが最後には勝つ」という自負をもっている。

 だが忘れてはならないことは、この「誰もが」の意味である。この競争の勝者は誰もがではなく「誰か」という少数の特定者である。

 孫子の兵法に「負ける戦はしてはならない」という教訓がある。

 では、負けない戦とは何を意味するのであろうか・・?

 まずは、この戦の構図をよく眺めることであり、その事態を正確に把握することである。

 不毛の戦いはいつまでも続くものではない。また、1社や2社の努力でこの事態がどうなるものでもない。遭遇している物質的利便性の過剰がもたらす貨幣経済混乱のエネルギは強大であり、肝要なのはこの莫大なエネルギをどのようにコントロールするかである。

 温故知新、戦国時代の混乱エネルギを信長はいかにコントロールしたのか、秀吉は、家康は、いかにコントロールしたのか・・?
 これらの状況をつぶさに検討し、その中から教訓を得なければならない。

 歴史小説家、司馬遼太郎氏は「時代のエネルギに乗ってやって来る者にはかなわない」と、その箴言集に書いている。そして、時代は常に、その時代エネルギの奔流に乗ってやって来た者によって開かれるのである。

 一方、いつの時代も一般民衆は、この時代エネルギの奔流に翻弄されるだけのはかない存在であるが、いかなる時代においても、その中で「けなげに」、そして「しぶとく」生き抜いた人々がいたことも、歴史は同時に記述している。

 時代エネルギの奔流をコントロールできないまでも、少なくともそのエネルギを味方にすれば「負けない戦」は可能である。

 時代の混乱エネルギとは、換言すればその混乱に遭遇した人々が発する意識エネルギの総量であり、それはとりもなおさず「ディオニュソス的な混沌の意識エネルギ」である。

 かって、華厳の滝に身を投じた16歳の藤村操が遺した厳頭之感は、五尺の小躯をもって彼が当時の時代エネルギの奔流に、孤軍闘いを挑んだ状況を今に伝えている。

「厳頭之感」 藤村操 (1903/5/22)
 悠々なる哉天襄、遼々なる哉古今、五尺の小躯を以て比大をはからむとす、ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを値するものぞ、万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く”不可解”我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に厳頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。

 彼が計らんとした「大」とは、まさにこの「ディオニュソス的な混沌の意識エネルギ」であり、これを計るにおいて「アポロン的な理性の意識エネルギ」であるホレイショの哲学をもってしては、もとから不可能であったわけである。

 ことさように、時代エネルギの奔流は一筋縄ではコントロールできないが、時代に生きる人間としては、それに果敢に挑むしか他に道がない。

2003.2.27

copyright © Squarenet