Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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物質文明の破綻
 20世紀は科学の世紀であった。科学的合理主義を発展させた物質文明が豪華絢爛と咲き誇った世紀である。

 今や、我々の意識が創出した物質文明が、創出した我々さえも凌駕する勢いである。

 初期の物質文明は生活を発展させるための「道具を創出」するところから始まったが、20世紀が構築した物質文明は生活を発展させるための「システムを創出」することに主眼がおかれた。

 道具的物質文明であれば、その道具を使用する人間にはまだ独自性が保証されており、この道具を縦横に駆使する人間の個性が存在しえた。
 だが複雑で緻密なシステムで構築されたシステム的物質文明では個の独自性が保証されず、人間は無個性化する。

 換言すれば人間が道具を使用する文明から、システムが人間を道具として使用する文明への転換であり、人間と物質との主客転倒の発生である。

 現在、この物質文明の変質に対応し、人間として独自性をもって生活している人の数は希少であろう。多くの人々はこの変質を自覚することなく、独自性と主体性を放棄し、従属的にこのシステム文明が構築した安逸な生活を享受することに貪欲であり、無個性化している。

 人間と文明の主客はあくまでも「人間が主体、文明が客体」でなければならない。

 生活の安逸と引き換えに、人間存在の地位を文明に明け渡してしまうことは、衣食と引き換えに人間性を譲渡してしまう、かっての「奴隷制度」に似る。

 人間は自分たちが構築したシステム文明の奴隷になろうとするのか・・?

 かっての奴隷制度は主客が主人と従僕という互いに人間であったからまだしも人間的でありえた。だが今度の奴隷制度の主客は主人が無味乾燥なシステムという非人間的な存在である。

 システム文明は今、コンピュータ技術が急速に発展し、爆発的に膨張している。しばらくすれば我々人間集団は化学飼料で飼育されるブロイラーのような集団に変質していく。もはや一匹一匹の鶏ではいかんともしがたい状況が現出し、我々人間は巨大で緻密なシステム文明の「1個の部品」としての意味しか与えられなくなる怖れがある。

 さらには1個の部品の地位が保証されればまだしもであり、最終的にはいてもいなくともそのシステムに何ら影響を与えることさえもない、「単なる蛇足部品」に成り下がってしまうのではないか・・?

 哲学者ニーチェはこの人間社会に訪れるであろう状況を100年前に知覚し、予言している。

 ニーチェの覚醒した意識は人類が千年単位の忘却の経過を経て、今や潜在意識下に埋没してしまった意識に到達した。この意識を彼は「ディオニュソス」と呼んだ。

 私著「Pairpole(物質編)」ではこのディオニュソスの意識をかって日本の縄文の世界に存在した原始的意識であるとした。縄文の世界はこのディオニュソスの意識が宇宙に満ちていた時代であり、人間意識と物質は一体であり、時間と空間の制約にも拘束されず、人々は縦横無尽に意識を宇宙空間に投射することができたであろう。

 だが人類は善悪はともかくも禁断の木の実、「知恵の木の実」を食べてしまったのである。知恵の木の実とは「あれとこれ」の識別、区別の認識であり、さらに還元すれば「因果律認識」の知覚である。

 この時より宇宙時間は速度を速め、生活は忙しく、人間意識と物質との分裂が始まったのである。人間と宇宙は「あれ」と「これ」に分離し、この分裂と分離は主客を発生させ、その表現手段としての言葉と文字を生むことに至る。これらの表現手段はさらなる宇宙の客観的観察能力を促進させ、人間の認識機能の進化と発展を促した。

 以上を経て、我々人間の認識機能が到達した世界が、今、我々が生活し、現に目にするシステム文明社会である。人間意識が宇宙と分裂、分離してここに至るまで、日本史は二千数百年の時の経過を通過した。

 今や日本にも世界にも地域格差は存在しない。「あれとこれ」に分裂した人間意識は地球上のすべてを覆い尽くしてしまったのである。

 極言すれば人類は自らの力でこの地球を消滅させ得る段階までに至ったのである。

 知恵の木の実とは、まさに「禁断の果実」であった。そして今まさに人類は数千年に一度の歴史的な転換点に立ち至っている。ここで人類は人間としての主体性を再びその手に取り戻すことができるのかどうか・・?

 「偉大な意識」が希求される所以は、まさにここに在る。

 哲学者ニーチェが全生涯を賭けて熱望した「超人」とは、この人類の主体性を取り戻してくれる「偉大な意識」をもった人間のことであろう。

2002.9.30

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